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9月, 2019の投稿を表示しています

アセンションを成功させる唯一の方法: 死ぬ気でいい人になり、背筋を正す

おはようございます。 久しぶりの、ゆっくりとした日曜朝、娘のお稽古待ちの時間帯、スタバでブログを書いています。 アセンションを成功させる唯一の方法、と、なにやら穏やかでない感じのタイトルですが。。。 クンダリーニエネルギーが目覚めて、本格的に活性化すると、10年くらいのサイクルで初めて落ち着く、ということは書いてきましたが、 その身体的、超能力的な超常現象と並行して、心と魂の鍛錬を進めないといけません。 なぜ「いけない」のかというと、いったんクンダリーニが目覚めるか、アセンションが始まってしまうと、心と精神を鍛えないと、間違った方向にエネルギーが向かってしまうからです。 本来明るく、聖なる方向に向かうべきエネルギーが、悪い方向に向かってしまうと、不安定になり、予測不能で、制御不能になり、その人を不幸せにし、破滅させてしまう可能性が大きくなるからです。 もちろん、なんども破滅があって、再生があるとも言えますが、そんな無駄な傷はうけないほうがいいし、時には再生する余力さえなくなってしまうことがあります。 では、どうやって正しい方向にエネルギーを向かわせ、アセンションして行くのか? というと、精神面・身体面で、答えはそれぞれひとつだけです。 精神面: 死ぬ気でいい人になる 身体面:背筋を通して、チャクラがアラインされた姿勢を目指す 先日、茶席に呼ばれる機会がありました。 掛け軸に、「一期一会」と書いてありました。 アメリカ人の上司は、日本文化に造詣が深いので、掛け軸の意味について、詳しい方にご説明いただいた方がいいだろうと、利休の思想と、禅の哲学における「一期一会」の意味と、ひとつひとつの茶席にこめられた意味や想いをその施設の学芸員の方に説明していただきました。 上司は前から勘がいいなとは思っていたのですが、専門家の「ひとつひとつのできごとは、一度しかない、という一期一会が、禅の考え方でもあり、この一期一会の掛け軸に込められています」という 簡単な説明を聞いて、あれ、これで伝わったかな? と思ったら、 上司が「すごく感動しました」というので、なにに感動したんだ?!と思ったら、 “It is telling us to “live in the moment” and that is a very precious teaching” と言ったんです。 LIVE IN TH

秋分の日は要注意

秋分の日、落ちてます、一言で言うと。 これから、だんだんと陽が短くなり、冬に備えて行く、その切り替えの秋分。 つまり、一言で言うと欠けていく、減っていく時期。 夏の間の過剰を デトックスして行く時期。 なので、 夏の間に溜まっていた疲れや、 汚れが、 どーん! と表面化しています。 アセンション 中で、 敏感になっている方は特に、 その大きな変化に繊細に敏感に反応して、 おおきなゆれうごきが心の中で起きているはずです。 わたしも、すごく小さなことに大きく動揺したり さんざんな1日でした。 そして、眠くて、 疲れている。 今日は、いろんな動揺が心の中で走るかもしれませんが、 これは秋分の日特有の出来事だと割り切って 今日強く意識されたことと しっかり向き合って そして手放して 割り切って 眠りについてください。

聖書の愛の定義

日々の小さな出来事、他人に言われた小さなことに一喜一憂してしまうことに、最近は悩んでいました。 悩むことに悩んでいた。 他人に言われた心ないこと、と感じることも、究極的にはその人はわたしとは別の人間なんだし、育ってきた環境も、全てが違うんだから、わたしにどう受け止められるなんて考えることなしに言ったことが、どうわたしに受け止められたかなんて、その人には知る由もない。 だから、気にしたって仕方ないし、 そういうことにこだわって気分を左右されてしまうことが、安定と平和を乱すし、愛が足りてないなと、感じることが最近多くあります。 それについて、教会で伝道師さまにお話ししたら、以下の部分を示していただきました: コリント人への手紙第一、13章1〜7節 “たとえ私が予言の賜物を持ち あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら私は無に等しいのです。 たもえ私が持っているもの全てを分け与えても たとえ私のからだを引き渡してしまうことになっても、愛がなければ、なんの役にも立ちません。 愛は寛容であり、 愛は親切です。 また人を妬みません。 愛は自慢せず、 高慢になりません。 礼儀に反することをせず、 自分の利益を求めず、 苛立たず 人がした悪を心に留めず、 不正を喜ばずに、 真理を喜びます すべてに耐え、 すべてを信じ、 すべてを望み、 すべてを忍びます。” ここに、日々、心がけることはすべて入っています。 朝、お稽古に行く準備で急いでいるとき、今朝も娘がのろのろとしていて、おもちゃを持って行こうとしたりする娘にイライラしてしまいました。 それも、愛のないことです。 愛がないな、と自分で嫌になります。 ただ、そんな私をわかっている娘は、 ママは急いでいるとき急に怖くなる 急いでいても優しく言わないといけないのよ と、さとされました汗 私より大人で、 一応許してくれている。 でもそれに甘えず、自分を律していかないといけないなと思っています。 今日一日、愛溢れる自分でいられますように。 Amen. 

見返りを求めない:サリンジャーの生き方

見返りを求めないで、まずは心をただすことが引き寄せ本来の目的だってことを書きましたが、昨日、台風で学校が休みになり、リモートワークにしてもらって、比較的のんびりした夕方を過ごしているとき、かりてきたサリンジャーの映画をみました。 https://www.rebelintherye-movie.com/ 『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』 わたしは、このブログでもだいぶ前に結構書いたんですが、サリンジャーにかなり影響を受けています。 特に「グラース家」の物語と、シーモア・グラスに。 『ライ麦畑』を出した後に、シュリ・ラーマ・クリシュナの思想と哲学に出会い、ヨガに目覚め、自分自身と向き合うことで戦争の傷とすこしずつ向き合えるようになったサリンジャーの姿が、とてもよく描かれています。 その中で、もともとエゴが強く、自分の才能に自信があるが故にまわりに認めてもらいたいという自己顕示欲に突き動かされながら書いていたサリンジャーに、『ストーリーズ』の編集長が「何の見返りも求めず書くのが本当の作家だ」と言ったとおりに、 真の意味で見返りを求めない書き方、つまり「出版しない」という道を早くに決めた姿を鮮烈に描き出していて、すごく考えさせれられました。 シーモア・グラスという穏やかだけれど、深い苦しみを抱えた主人公を中心に描かれるグラース家の物語を読んで、シーモアはなんとなく戦争にいって変わってしまった、ということはわかるのだけれど、その戦争がどういうものだったか、いまいちわからなくて、シーモアの苦しみの源にあるものがよくわかっていなかった、と感じました。 そうか、サリンジャーはD-day でノルマンディ上陸を果たすという第二次世界大戦でもっとも苛烈な部隊に配属されていたんだな、とか、 ユダヤ人強制収容所の解放をおこなった、つまりそこにあった地獄を目撃したんだ、とか、 そういうことがわかって、より自分が彼の作品群から受けた衝撃と影響を深く感謝できるようになりました。 映画の中で、本当の幸せをみつけるためには、見返りを求めない、社会からの評価や、成功と関連付けられる存在のあり方を変えないといけない、と考えるようになったことが描写されていきます。 人に認められること。たくさんのフォロワーがソーシャルアカウントでいること。雑誌に載ったり

引き寄せって何のための引き寄せ?お金?それとも幸せ?

ちと、抱えていた一大プロジェクトが山場を超え、睡眠不足が解消された上、明日は台風で娘の学校の休みが決まっているため、少し夜更かし中。 さて、最近のわたしは、引き寄せに辟易しております。 もちろん大事なことではあるんだけれど、、、 前は本屋に行くと必ず立ち寄っていたスピリチュアルコーナーにも全く興味がなくなり、大好きだった引き寄せ系メルマガもうんざりして解約。 何で辟易かというと、どれもこれも、引き寄せの法則を実践することで、同じことを目指してるから: ☆もっとモテる ☆もっとお金持ちになる ☆成功する ☆全てうまくいく ☆運命の人にあえる なんていうのかな、すごく即物的で、安易だし、浅はか。 そもそも、引き寄せってたぶん、 本質的な部分でいろんなことを反省し、より良い人間になることによって、その副産物としていろんなことがうまく回り始める、そういうものであるべきだし、だからこそうまくいくもんだとおもう。 その順番が大事なのであって、見返りを求めることが先にあるのでは意味ないし、そもそもうまくいかないとおもう。 でも今溢れてるのは、改めよ、さらば報われん、の報われるってところにばかりフォーカスがいっていて、アメリカの眉唾系のコーチングみたいな感じで、資本主義のにおいがきつい。 なんていうのかな、そういうの、もう古いなぁ、と。そうおもいません? 今日、スーパーで、一番奥の方の納豆をガサガサってガサツに取って、陳列を乱してるおばさんがいました。 彼女を見たときに、昨日読んだ日経の記事で、消費の仕方を変えることで社会貢献する「社会的消費」の流れが強まっているとい記事があったことを思い出しました: https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49536820W9A900C1SHA000/ 賞味期限が切れている商品を集めるお店が人気が出ていたり、食品ロスの話を学んで、後ろの方から商品を取るのが恥ずかしくなって、積極的に一番前に並んでるのを取るようになった女性のコメントが引用されていました。 自弁だけ良ければ良い。という独善的消費の価値観から、社会的消費へ。 そういうことだとおもいます。 成長して、豊かになって。 すると、お

アセンションをして行くと、アセンションがどうでもよくなる

2009年にわかりやすい形で目覚め、アセンションが始まり、10年経ちます。当事、超心理学の本を読んでクンダリーニについて調べたところ、大抵の場合「10年くらいで1サイクルが終わる」という記述がありました。 それは実際にその通りだったな、という感じがしています。 さまざまな超常現象?的な身体現象は、落ち着きました。数ヶ月前くらい、今年五月ごろが一番激しかったのですが、大きな試練を乗り越えてからはおちつき、揺れやグラつきは時々おやっ?とおもう程度で恒常的にあるわけではありません。 食欲の暴走も、おさまり、気分の大きなアップダウンもおさまってきました。 一番の変化は、そういう変化に一喜一憂して振らされていたのが、全くなくなったこと。 それはそれ、と納得していること。 全ては「神のみわざ」であり、奇跡が起きたのだ、ということ。 その奇跡をやかましく喧伝するのではなく、奇跡がつづいて、神の導きがはっきりとわかり、腑に落ちた感じで、たんたんと神の教えを守りつつ、愛と優しさと義で、前にすすもうと決められたことです。 パウロのコリント人への手紙に、イスラエルの民がいかに神の教えに背き、さまざまな試練を与えられたかが書いてありますが、最終的なメッセージは、それでも神は乗り越えられない試練は与えない、とはっきりといっていること。 これまでのわたしに起きた試練は、 わたしの方向を修正させるためであったり、 なんらかの導きのために与えられているのが、その後の人生の流れを見てわかります。 そして、その先の人生をきちんと生きるために必要なレッスンを与えられているのだということも。 この2ヶ月くらい、たまたま娘のお稽古中にお祈りするためにふらっと入っていたプロテスタントの教会で、どうせなら聖書の勉強をして一緒に祈りませんか、と誘われ、 はじめてきちんと聖書を勉強しています。 その中で、原点に帰った気がしています。 スピリチュアルな世界で、アセンションを語るときに「愛と光」といいますが、この根本はキリスト世界の愛と光で、やはりその根本は聖書を勉強してみないと、なかなかわかりにくい。 「引き寄せ」みたいな即物的なものをとっかかりに入ると、余計そうなんです。 基本は、「はじめに光があった」、これはビッグバンのことですね。 そして、そこから「創造」があった。でも、人間は堕落してしまった。 その罪の贖罪の