時々パラパラとヨグマタ相川先生のご本を開くとその時どんぴしゃりのお言葉が目に入ってきます。
「ヒマラヤ大聖者の心の曇りを取る瞑想」より:
「欲、つまりこだわりは自分で無理に抑えたり取り除いたりすると、バランスをとるために違うとらわれが生まれます。欲、あるいは執着は、自然に落ちるのがいいのです。〜中略〜では欲が自然に落ちる時とは、どんなときでしょうか。それは、物質よりも、もっと「高級なもの」に目覚めたときです。
高級なものとは、愛であり、自分自身の神聖さです。
そこに気づいたとき、人の心は満たされ、心を超えて本日の世界に生きることができるのです。それは悟りへの道の目覚めでもあります。源に繋がり、内側からの豊かさが湧き出るのです。。。それは色々な執着を、とる秘訣でもあります」
先週、久しぶりにアシュタンガヨガのプラクティスに参加しました。
アシュタンガヨガは、わたしがもともと始めためっちゃきつい、本格的なヨガで、
もうかれこれ十数年前にはじめました。
毎日ルーティンをやってないととれないポーズばっかりで、ほかのパワー系のヨガやハタヨガをやってて自分結構できてるなと思っていても、アシュタンガを久しぶりにやっちゃうとできないことばかりで自分の限界を感じます笑笑
ここんところずっと、ヨガの前に呼吸に意識を集めてプチ瞑想すると、わーっと思い出したくないことが出てくるんですが、
それは普通のことなんです。
リラックスして瞑想状態に入ると、普段抑えているものが出てくる。
で、わ!と逃げたり動揺したりしていたんですが、その久しぶりのアシュタンガの時は、
「ふーん、出てきたね、だから?それに対してわたしはなんの価値判断もない、起きたことなんだろうけど過去のことで、もはや別のパラレルワールドだと考えているし、すべては良い方向に向かうために起きたことがあるからプラスにしか評価しないし、だからなに?」って。
わたしはニュートラルよ、って。そのエゴがえいやー!どうだ!と出してきた伝家の宝刀のトラウマ映像に対し、真正面から向き合って、通用しないよ、といったの。
そうしたら、ふっと、消えた。
それこそもうそんとに、ふっ!ふわっ!と雲散霧消したって感じ。
そのあとのシークエンスの間はもう出てこなかった。
だから、まずは、嫌なことが心の中で出てきたら、見つめる、眺める、おー出てきたなー、と眺めるのが大事なんです。まるで、対してみてもいないテレビ番組をみてるみたいに。
そして最後に坐禅を組んだときには、
学校の延長保育で、少し早くと迎えにいけたときに、娘がままー!と全速力でわたしに向かって走ってくる映像でした。
そう、わたしは娘を愛してる。
娘もわたしを愛してる。
娘に、罪悪感を感じることもない。
わたしたちには、わたしには、今がある。
あなたにも、今がある。
過去のなにかや、未来のなにかが不安を起こそうと襲ってきた時は、眺めてください。
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