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ニーバーの祈り、変えられることと変えられないことを見分ける賢明さについて

ラインホルド・ニーバーの「 Serenity Prayer 」が最近何人かの人と話をする中で出てきたので、改めて書いてみたいと思います。日本では「ニーバーの祈り」などと言われることが多いようです。 英語のオリジナルについている日本語訳がどれも微妙なので、今回 英語のニュアンスをきちんと伝えるように自分で翻訳しなおしてみました; 「静謐で澄んだ心の祈り」ラインホルド・ニーバー 神よ、自分の力では変えることのできないものを変えることのできないものとして、 静謐で、澄んだ心で受け入れることができるよう、わたしに慈愛の心をお与えください。 また、変えるべきものを変えるための勇気を、 そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢明さをわたしにお与えください。 一日一日を大事に生き、 その瞬間、瞬間の喜びを最大限味わい、 苦しみは平穏への旅路であると受けとめ、 この罪に満ちた世界を 自分の意のままに変えたいと望むのではなく、 イエス様のように、 あるがままに受けいれ、 神がすべてをあるべき場所へと導いてくださることを信頼し、 神のご意思へとわが身をあけ渡しさえすれば、 今生で与えられた命のささやかな幸せを見出し、 あなたの王国に迎え入れられた暁には、 永遠の幸せを送ることができるでしょう。 アーメン    Serenity Prayer; God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, Courage to change the things which should be changed, and the Wisdom to distinguish the one from the other. Living one day at a time, Enjoying one moment at a time, Accepting hardship as a pathway to peace, Taking, as Jesus did, This sinful world as it is, Not as I would have it, Trusting that You will make all things right, If I surr...

アセンションの目的は非物質と物質世界の両方に同時存在すること

このところのちょっとした発見というか、結論をシェアします。 アセンション の目的というのは、波動上昇とか、いろんなことが言われてますけれども、いまのわたしに一番しっくりくるのは、「非物質」つまりこの世、現実世界ではないところの世界の大きさと偉大さを知り、非物質の世界と繋がりながら、この地球という物質世界で十分に自分の能力を発揮し、楽しむことです。 地球は、宇宙のより高度な意識体によって作られた「試験管」みたいな場所です。 3次元の、つまり物質世界におりてくると、肉体と重力があるからこそ経験できる素晴らしさを味わえます。プラスの点もある一方で、肉体と重力に囚われ、争ったり疲れたりします。 そして、肉体に生まれるに当たって、高度意識のエネルギーの高さを低くしないといけないので、基本的に「悪」になってしまいます。 そこから意識をどうあげていけばいいのか、については、地球のヒト史上何度も高次元からお助けやヒントが送られていて、イエスや仏陀がそれに当たります。 送られてきた彼らの教えを忠実に実現して行くと、波動は必ず上がる仕組みになっています。 非物質世界とは、4次元以上の世界であり、天国や、仏教の曼荼羅に書かれる地球より上のすべての見えない世界。すべてがエネルギー、波動の世界です。この世界にいわゆる神様もいるし、天使もいるし、ハイアーセルフもいます。妖精や天使は、適宜物質世界におりてきて、エネルギーとして介在し、活動しますが、エネルギーなんで見えません。子供には見える人もおおく、うちの娘は見えます。わたしはエネルギーだけ感じます。ただ、iPhoneではなぜか撮影できます。 UFOとかエイリアンも基本的には非物質の世界のものです。 で、こっちの非物質の世界の方が、世界のメインであり、私たちの物質世界は、ほんとに特殊なところで、よっぽど上の方の人たちでないと耐えられないってことで、上の方の人と、あと、こいつらしょーもねーな、っていう悪魔が転生させられています。 なので、この世界は、高度魂と、低度な魂が、二極化していて、ことあるごとに世界は二極化します。 とはいえ、悪魔といっても、要するに堕天使なので、頭もすこぶるいいし、やり方によっては改心する見込みもあるため、改心して行く人もいるし、悪いことをしていても、どこかで心と魂は罪悪感を感じていることは確かです。 宇宙は、完全なるバラ...

常に愛に立ち返ること

風邪をひいて、体調を崩して、仕事や育児の疲れがたまり、かなり落ち込んでいました。 いろんなことにネガティブになり、信じたい人なのに不信感や疑問が湧いてきた時、思い出した聖書の一節があります。「コリント人への手紙」の、13章、愛とは何かについて書かれた箇所です: 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。 愛は不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 愛は不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。 ・・・ このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 ・・・ 以上です。 この一節を思い出して、「人の行為を悪としない」という一節も思い出しました。 聖書には、ここぞという時に立ち返ると、正しい道に引き戻してくれる力があります。 自暴自棄になっていた時、わたしは聖書の言葉とまったく逆に向かっているなと感じました。常に、そこに真理があるということを実感できれば、踏みとどまることができます。 疲れて落ち込んでいる時は、色々な人のことを悪く考えてしまいがちです。 でも、その人たちは、あなたの気持ちをまったく知らないということもあるわけです。まずは、決めつけずにコミュニケーションをとることから始めてみれば、自分で勝手に妄想を膨らましているということだってありうるわけです。 ですから、迷った時、なぜか自分がネガティヴにしか考えられない時は、常に正しいこと、つまりそこに愛があるのか、自分は愛にもとづいて考えているのか、行動できているのか、にフォーカスしてください。 常に、愛のある方向が応えで、愛を選び、愛に立ち返るようにしましょう。

聖書の愛の定義

日々の小さな出来事、他人に言われた小さなことに一喜一憂してしまうことに、最近は悩んでいました。 悩むことに悩んでいた。 他人に言われた心ないこと、と感じることも、究極的にはその人はわたしとは別の人間なんだし、育ってきた環境も、全てが違うんだから、わたしにどう受け止められるなんて考えることなしに言ったことが、どうわたしに受け止められたかなんて、その人には知る由もない。 だから、気にしたって仕方ないし、 そういうことにこだわって気分を左右されてしまうことが、安定と平和を乱すし、愛が足りてないなと、感じることが最近多くあります。 それについて、教会で伝道師さまにお話ししたら、以下の部分を示していただきました: コリント人への手紙第一、13章1〜7節 “たとえ私が予言の賜物を持ち あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら私は無に等しいのです。 たもえ私が持っているもの全てを分け与えても たとえ私のからだを引き渡してしまうことになっても、愛がなければ、なんの役にも立ちません。 愛は寛容であり、 愛は親切です。 また人を妬みません。 愛は自慢せず、 高慢になりません。 礼儀に反することをせず、 自分の利益を求めず、 苛立たず 人がした悪を心に留めず、 不正を喜ばずに、 真理を喜びます すべてに耐え、 すべてを信じ、 すべてを望み、 すべてを忍びます。” ここに、日々、心がけることはすべて入っています。 朝、お稽古に行く準備で急いでいるとき、今朝も娘がのろのろとしていて、おもちゃを持って行こうとしたりする娘にイライラしてしまいました。 それも、愛のないことです。 愛がないな、と自分で嫌になります。 ただ、そんな私をわかっている娘は、 ママは急いでいるとき急に怖くなる 急いでいても優しく言わないといけないのよ と、さとされました汗 私より大人で、 一応許してくれている。 でもそれに甘えず、自分を律していかないといけないなと思っています。 今日一日、愛溢れる自分でいられますように。 Amen. 

アセンションをして行くと、アセンションがどうでもよくなる

2009年にわかりやすい形で目覚め、アセンションが始まり、10年経ちます。当事、超心理学の本を読んでクンダリーニについて調べたところ、大抵の場合「10年くらいで1サイクルが終わる」という記述がありました。 それは実際にその通りだったな、という感じがしています。 さまざまな超常現象?的な身体現象は、落ち着きました。数ヶ月前くらい、今年五月ごろが一番激しかったのですが、大きな試練を乗り越えてからはおちつき、揺れやグラつきは時々おやっ?とおもう程度で恒常的にあるわけではありません。 食欲の暴走も、おさまり、気分の大きなアップダウンもおさまってきました。 一番の変化は、そういう変化に一喜一憂して振らされていたのが、全くなくなったこと。 それはそれ、と納得していること。 全ては「神のみわざ」であり、奇跡が起きたのだ、ということ。 その奇跡をやかましく喧伝するのではなく、奇跡がつづいて、神の導きがはっきりとわかり、腑に落ちた感じで、たんたんと神の教えを守りつつ、愛と優しさと義で、前にすすもうと決められたことです。 パウロのコリント人への手紙に、イスラエルの民がいかに神の教えに背き、さまざまな試練を与えられたかが書いてありますが、最終的なメッセージは、それでも神は乗り越えられない試練は与えない、とはっきりといっていること。 これまでのわたしに起きた試練は、 わたしの方向を修正させるためであったり、 なんらかの導きのために与えられているのが、その後の人生の流れを見てわかります。 そして、その先の人生をきちんと生きるために必要なレッスンを与えられているのだということも。 この2ヶ月くらい、たまたま娘のお稽古中にお祈りするためにふらっと入っていたプロテスタントの教会で、どうせなら聖書の勉強をして一緒に祈りませんか、と誘われ、 はじめてきちんと聖書を勉強しています。 その中で、原点に帰った気がしています。 スピリチュアルな世界で、アセンションを語るときに「愛と光」といいますが、この根本はキリスト世界の愛と光で、やはりその根本は聖書を勉強してみないと、なかなかわかりにくい。 「引き寄せ」みたいな即物的なものをとっかかりに入ると、余計そうなんです。 基本は、「はじめに光があった」、これはビッグバンのことですね。 そして、そこから「創造」があった。でも、人間は堕落してしまった。 その罪の贖罪の...

神の許しと愛があってアセンションが進む

前回の書き込みからほぼ1ヶ月経ってしまいました。 ご無沙汰してしまいました。 なんとなく、自分の中でアセンションの変化についてがむしゃらに書かなきゃ書かなきゃ、という気持ちがなくなって、まぁこんな感じねぇー、と浮遊して、普通に過ごしている感じのことが最近は多いので、あまり書きたいというインセンティブなかったからと、 夜ほんとにすぐ眠くなることと、 実際に忙しくて書けなかった からだと思います。 一週間ちょっと海外に行ってたんですが、その前の一週間がほんとに、仕事面で忙しくて、でも頑張ったーという感じ。 その忙しさに関して思っていたんですが、7/17の満月時に書いたアファメーションのことをほぼそのままに反映してるからこその忙しさだったんです。 現実になってるわぁ。。。と思います。 やはりアファメーションをそこ、ここできちんと書いて行くことは大事ですね。 そして、たまたま娘のお稽古の間、お稽古場の近くにある教会でお祈りをしていたら、 聖書の勉強を教会の伝道師の方がしてくださることになり、 昨日のおけいこの間のお話が、とても深いもので、ライトボディ やアセンションが、キリストボディ、ないしキリスト意識と言われる理由が、よくわかりました。 結局、アセンションに関する情報にもキリストのこと、聖書のことが良く出てきますが、すべては聖書に書かれているのかもしれませんし、より深く、アセンションの観点から聖書を読むと、いろいろとわかることがあるのかもしれません。 主の祈り という一番メジャーなお祈りがあり、これがお祈りの在るべき形を示しているのですが、 ここに、 「神がわたしたちの罪、負い目を許してくださるように、わたしたちも周りの人々の負い目を許せるように」 という意味のところが出てきます。 この部分に関して、伝道師の方とディスカッションをして深く納得したことがあります。 それはどちらが先にあるのか、ということです。 普段から周りの人を許してゆくと心が清らかになり、自分の罪を許してもらえる、ということではないのです。 それはどちらかというと、仏教的な、あるいは儒教の考え方です。 利益優先という感じ。 引き寄せの悪いタイプのものもそうかな。こうやったら、こう報われる、見返りがある、という思考回路。 より大きな幸運がやってくるから、人助けをする、とか。 見返りを期待してやる、ってことで...