クンダリーニ覚醒が起きてから、17年。 世界の見え方が変わった。 身体が変わった。 次々と起こる出来事に、驚き、戸惑い、恐怖も感じた。 それでも、あの時引き寄せたいと願ったことは確実に現実になった。 仕事も。 暮らしも。 いつしか、夢だった毎日が当たり前になった。 その代わり、私は何かを置いてきてしまった。 企業社会に慣れ、気づけば、覚醒とともにあった感覚も、記憶も、少しずつ遠ざかっていた。 でも、それは私自身が望んだことでもあった。 当時の覚醒は、あまりにも強烈だった。 普通に生きたい。 安定して暮らしたい。 そう願った。 すると、不思議なことに、クンダリーニは静かになった。 変性意識と感覚を閉じ、普通の社会の中で生きることを選んだ。 それもまた、必要な時間だった。 そして今。 17年という歳月を経て、再びクンダリーニが動き始めた。 きっかけは、再開したピラティス。 David Bayer の動画。 そして、ヘアサロンで勧められたスピリチュアルカウンセラーの、たった一言。 その瞬間、はっとした。 私はずっと、頭で変わろうとしていた。 頭の中で Let Go を繰り返しても、身体がサバイバルモードのままなら、発している周波数は変わらない。 変えるべきは、思考ではない。 身体。 身体が変わる。 身体が発する周波数が変わる。 その周波数がソースと同期する。 クンダリーニは、そのために上昇する。 怖さがなくなると、クンダリーニエネルギーは穏やかに、しかし力強く動き始める。 暴力的ではない。 クンダリーニ症候群なんてこともない。 ただ、本来の働きを始める。 そして最近、もう一つ気づいたことがある。 クンダリーニと、身体の深部にある筋肉。 いわゆるコア。 この二つには、驚くほど深い関係があるのではないか。 まだ仮説にすぎない。 けれど、17年という時間があったからこそ、ようやく見え始めたものがある。 これから、その記録を残していこうと思う。
昨年末から、頑張っていることがあります。 それは「中途半端なままのフランス語を、ちゃんとマスターすること」。 きっかけは、公文式でフランス語をマスターしたという人との出会い。 私も、娘に小1から小5まで嫌がられつつも毎日やらせた公文算数の効果を知っていたので、やってみようと思いました。 「継続は力なり」というモットーの通り、毎日少しずつプリントをこなし、加えてオンライン会話も続けました。今では、やらない日があると落ち着かないくらいです。 プリントはAからLまであって、1段階200枚。 とうとうJまできて、残すはKとLだけ。でもここからが急に難しくなります。 そして、大学時代に挫折したボードレールの『パリの憂鬱』がテキストに登場しました。 正直、この作品の退廃的で暴力的な雰囲気は、今の平和な生活のペースにそぐわないと感じていました。 けれど、以前は読めなかった長い構文が、今ではすっと読める。 精緻な構成や想像力豊かな言葉の組み合わせに気づき、時々、ボードレールという人がもしもっと開かれた時代に生まれていたら…なんて微笑ましく思う瞬間もあります。 印象的だったのは、この一節(日本語で引用します)です。 「好奇心も野心もなくなった者にとって、展望台に寝そべって、あるいは防波堤にひじをついて、出発する者、戻ってくる者、望む力や旅をしたり富を求めたいという欲望をまだ持っている者のあらゆる動きを眺めることは、一種の神秘的で貴族的な快楽があるのである」 実は、この感覚、最近の私もよくわかるのです。 2か月前、私は日本でも屈指の忙しい路線を崖下に見下ろせる高台のマンションに引っ越しました。 ベランダはハーブや果物、バラでいっぱい。敷地内には大きな木が並び、都会のオアシスのようです。 そこから、視界のほんの一部に電車が見えます。高速で通り過ぎるその車両の中の人々は、私の存在を知りません。けれど私は、通勤や通学、あるいは遊び疲れて帰る人々を眺めています。 私はベランダで植物の世話をしたり、洗濯物を干したり。土の匂いや洗剤の匂いに包まれながら、鉄の塊が電力で突き抜けていくのを見送ります。 そこには社会の大きな力と、ひとりひとりの小さな日常が同時に流れています。 不思議と、その光景は私を落ち着かせます。 ボードレールが港で感じた「群衆を眺める快楽」に似ているのかもしれません。 現代社会の渦...