ここ数回にわたって私が書き記してきた「タントリック・シャイヴィズム」の教えについて、一度その全体像と本質を分かりやすく整理しておきたい。 一般的には「カシュミール・シャイヴィズム(カシミール・シヴァ派)」と呼ばれることも多いが、この地域的な名称に対しては「特定の地域に限定しすぎている」という批判の声もある。 そのため、思想の本質を表す「Non-dual school of Shaivism(シヴァ派の非二元哲学)」や「タントリック・シャイヴィズム」、あるいは総称である「トリカ(Trika)」と呼ぶ方が、その広大なスケール感を正しく表しているかもしれない。 現代の哲学者、物理学者、スピリチュアルティーチャーたちの多くがなぜこの古代哲学に惹きつけられるのか。その構造を「シヴァ」「非二元(Non-duality)」「タントラ」という3つの軸から紐解いていく。 1. 根本となる「シヴァ」とは何か この体系の出発点は、すべて「シヴァ(Śiva)」にある。 ここで言うシヴァとは、特定の宗教的意匠をまとった神像のことではない。 至高の純粋意識(Absolute Consciousness)そのものを指す。 この至高意識は、存在と存在すること(Being of being)、意識と自覚(Conscious consciousness)が一切分かたれず、何ものにも制限されない完全な自由(Will / Willingness)を保持している。 この無限の自由なエネルギーの動き(Spanda / 振動)から物質が生まれ、肉体が生まれ、人間としての体験が紡ぎ出されている。 2. なぜ「Non-dual(非二元)」なのか 従来の多くの宗教や哲学が「神と人間」「天国と地上」「聖と俗」を明確に分ける二元論的な世界観をとったのに対し、トリカは徹底した非二元(Non-duality / 不二一元論)を提示する。 世界も、他者も、この肉体も、すべては「ひとつの意識(シヴァ)が自らを形を変えて表現している姿」に過ぎない。つまり、「神と私は別々であり、修行して神に近づく」のではなく、「最初からすべてがシヴァそのものである」という視点に立つ。これが、Non-dual school of Shaivism と呼ばれる所以である。 この根本哲学は、8〜9世紀頃に明...
今回は一歩引いて、俯瞰したところから書いてみたい。 長年続いてきた歩みが今、どこに向かうべきなのか、なぜ起きていたのか、今鮮明に見えてきている、というより、「わかる・感じる」というべきか。 そもそもなぜ私は、10年以上に渡って(一度別のブログを閉鎖しているのでそれを含めると10年以上になる)、ブログで己の体験と向き合い続けてきたのだろうか。その原点は、私の幼少期の「ある一夜」に遡る。 新宿の副都心から、西ヨーロッパの田園風景へ 私は北米で生まれ、大学で日本に戻るまで、さまざまな国を転々としながら育った。 小学校1年生のとき、全く日本語の通じないフランス語圏の片田舎へと引っ越すことになった。現地の小学校に編入するまでのいくばくかの期間、何もすることがない静かな時間があった。 それまで住んでいたのは、高層ビルが立ち並ぶ東京・新宿の副都心。それが突然、西ヨーロッパの田園風景の、古いユダヤ系貴族の屋敷へと移り住むことになった。 夜になると周囲は漆黒の闇に包まれ、気持ち悪いほどに無数の星が輝いていた。家の中にいるのは、家族とハウスキーパー、そして1匹の大型犬だけだった。 ある日の夜、私は慣れないベッドに横たわりながら、暗闇の中で天井を見つめて、ふと次のような考えが浮かんだ: 「私の名前は〇〇〇〇。でも、この広い土地でその名前を知っている人は誰もいない。今は夜で、みんな寝ている。私の名前を知っている家族も寝ている。私の名前を伝える言葉すら、誰にも通じない。私のことを知っていた友達や先生たちは、遠く遠く離れた日本にしかいないんだ」 その瞬間、強烈な問いが頭をよぎった。 「私って、本当にこの世界に実在しているのだろうか? これを考えている、私の頭の中だけの存在なんじゃないだろうか。だって今この瞬間、私が存在することを証明できる人なんて誰一人いないのだから……。私って一体、何なんだろう?」 身体から重力が消えた瞬間 ――「ラギマー(Laghima)」の体験 それは恐怖や不安といったネガティブな感情ではなく、きわめて鮮明な「身体感覚」として訪れた。 そう感じた瞬間、 ふわっと自分の身体が軽くなるのを感じた。 仙骨のあたり(ベースチャクラ/ムーラダーラ)からエネルギーが立ち上がり、全身にかかる重力を無力化していくような「軽さのセンセーション」だった。ベッドの上に横たわったまま、まるで自分...