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【閑話休題】Gupta Yogi, Āveśa, and Laghima ――7歳の夜、異国の地で「重力」が消えた原体験:「純粋意識」と軽さの恩寵

今回は一歩引いて、俯瞰したところから書いてみたい。 長年続いてきた歩みが今、どこに向かうべきなのか、なぜ起きていたのか、今鮮明に見えてきている、というより、「わかる・感じる」というべきか。 そもそもなぜ私は、10年以上に渡って(一度別のブログを閉鎖しているのでそれを含めると10年以上になる)、ブログで己の体験と向き合い続けてきたのだろうか。その原点は、私の幼少期の「ある一夜」に遡る。 新宿の副都心から、西ヨーロッパの田園風景へ 私は北米で生まれ、大学で日本に戻るまで、さまざまな国を転々としながら育った。 小学校1年生のとき、全く日本語の通じないフランス語圏の片田舎へと引っ越すことになった。現地の小学校に編入するまでのいくばくかの期間、何もすることがない静かな時間があった。 それまで住んでいたのは、高層ビルが立ち並ぶ東京・新宿の副都心。それが突然、西ヨーロッパの田園風景の、古いユダヤ系貴族の屋敷へと移り住むことになった。 夜になると周囲は漆黒の闇に包まれ、気持ち悪いほどに無数の星が輝いていた。家の中にいるのは、家族とハウスキーパー、そして1匹の大型犬だけだった。 ある日の夜、私は慣れないベッドに横たわりながら、暗闇の中で天井を見つめて、ふと次のような考えが浮かんだ: 「私の名前は〇〇〇〇。でも、この広い土地でその名前を知っている人は誰もいない。今は夜で、みんな寝ている。私の名前を知っている家族も寝ている。私の名前を伝える言葉すら、誰にも通じない。私のことを知っていた友達や先生たちは、遠く遠く離れた日本にしかいないんだ」 その瞬間、強烈な問いが頭をよぎった。 「私って、本当にこの世界に実在しているのだろうか? これを考えている、私の頭の中だけの存在なんじゃないだろうか。だって今この瞬間、私が存在することを証明できる人なんて誰一人いないのだから……。私って一体、何なんだろう?」 身体から重力が消えた瞬間 ――「ラギマー(Laghima)」の体験 それは恐怖や不安といったネガティブな感情ではなく、きわめて鮮明な「身体感覚」として訪れた。 そう感じた瞬間、 ふわっと自分の身体が軽くなるのを感じた。 仙骨のあたり(ベースチャクラ/ムーラダーラ)からエネルギーが立ち上がり、全身にかかる重力を無力化していくような「軽さのセンセーション」だった。ベッドの上に横たわったまま、まるで自分...

願い事は声に出して言わないと届かない理由

ご無沙汰しております。 最後に書いたのが5月で、こんなに時間が経ってしまったのに、時々覗いてはコメントをくださる方がいらっしゃることに感謝です。 今年はスキーでほぼ断裂した膝の前十字靭帯再建手術からの、遅延型アレルギー、子宮筋腫と、今までのペースで体のことを考えずに生き急いでダメよ、というストップをかけられた年でした。いつのまにかもう11月も目前。 さて、そんな中、どうしてもこちらにお越しくださる方に伝えたいことがありまして、久しぶりに書いています。 願い事やアファメーションは声に出す方が良い、と良く聞きますよね。私もそう思ってましたが、なんとなく声に出すことって実はあまりなくて、心の中で思ってるから大丈夫だろうくらいに思ってました。 そうしたら、たまたまみたアメリカのチャネラーの方のYouTubeで、なぜ声に出さないといけないのか、ということを説明されていて、驚愕。 なぜか? それは、天使や、守護霊、高次元の存在たちにとって、人間と向き合うときに、何よりも大事にしないといけないのは、 自由意志 だから。 高次元の存在は、この三次元の世界の物理的制約がないので、なんでも瞬時にテレパシーのように伝わり、過去現在未来もなく、全てがただ「在る」世界にいます。 一方人間は、物理的制約の中で自分の力で成長するために地球に生まれてきた魂。 その人間にとって一番大事なのは、「自由意志」。 いろんな制約の中で、もがき悩みながらも、自分力で選択し、決断することで進むことが人間の最大の価値。だからこそ高次元の人たちは私たちの中にある想いを尊重して、中にまで入ってこないのです。 高次元の人たちには、体現できないものだからこそ、彼らは人間の頭と心の中をのぞかないのです。だから、心の中で言ってても、彼らには聞こえないの。 このため、ごく微かな声でもいいので、声に出して願い、アファメーションし、祈ることが大事。思えば、クリスチャンのお祈りでも、イスラム教徒でも、神道でも、祈りはすべて、発声されますよね。 そこには理由があったのですね。 心の中で言ってるだけでは、聞こえない、伝わらないから、声に出して言わないといけない、と知ると、俄然やる気出てきます。 だから?!なのかはわかりませんが、絶対絶命な状況で声に出して願ってみたら、かなったことがあります。 今、海外での研修のために成田空港に向かってる...

聴く、ことの力

  このところ、ウクライナの書き込みが続きましたね。ちょっと饒舌になりすぎたかなと反省しています。今、情報が多すぎますね。心が疲れてきた、というところ、ありませんか?「情報戦」まさに情報が「戦争」になっている、そんなところありますね 。 私はちょっとその流れに影響されてしまったのかもしれません。 今これを私は病院の一室で書いています。 明日朝から、全身麻酔で手術を受けます。別に、その手術自体で、生きるか死ぬかの瀬戸際ということではありません。長い目で見ると、もしかすると命にかかわるかもしれないものが、大変運よく、奇跡的といってもいいほどの、まったくの偶然の流れで3か月ほど前に見つかったのです。 経過観察をしたら、まだあるね、ということで、取っていただけることになりました。 方向性が決まるまでは、最悪の事態をつい想像してしまうと、ともすると深く暗い淵に落ちていくような、そんな気配もありました。しかし、そんな気配を感じたときに、私を光のほうに引き戻してくれたのが、 Faith です。 Faith って、日本語には訳しにくい。信仰、というのが辞書的な訳語です。でも、特定の宗教を持たない人はちょっと違和感のある言葉ですよね。信念?そうとも言えます。 ただ「信じている」、あるいは「確信」していること、その二つを足してに2で割ったような、そんなものでしょうか。 何への Faith かというと、それは、 このブログにこれまで書いてきたことすべてへの Faith です。 宇宙を、大いなるものを信じて、それに対してすべてを委ねること。 明け渡せば、心には正しく、清く、明るいものが入ってくること。 心が明るいもので満たされれば、明るい未来がやってくるということ。 そして、宇宙を信じれば信じるほど、宇宙はよき知らせ、明るい未来、光で応えてくれるということ。 ここ数か月の間、生と死、について、いつもよりもたくさん考える機会がありました。 そもそもコロナ禍で、そういう方、多いと思います。 そんな中で勃発した戦争、毎日届く、心がはりさけそうになるようなつらい映像。 そして個人的には、みつかった病変がどうなるのか、そしてどうするのか?という、3か月という、経過観察に必要な時間が経つまでは、結論が出ない、という宙ぶらりんで...

神と宇宙を喜ばす「柔和さ」には自制された怒りという「強さ」があった

  聖書の中には「柔和」という言葉が非常によく出てきます。それもとても重要な場面で。そもそも、イエス様がロバに乗ってやってきた時点で、「柔和な王」と言われているので、神が「柔和である」ことは神の最も大事な特徴だということがわかります。また、神に愛されるのは人間における「柔和」な性質であることも多くの場所で明らかにされています。でも、この柔和という漢字の言葉、かなり使いなれない、聞き慣れない言葉だし、どういうことをさすのか、もっと詳しくしりたいと思ったんです。 そこで、英語をみてみたら、時代の変遷によって訳語が変わってきているのがわかりました。聖書はもともとギリシャ語で書かれていて、それを英語に訳しているのですが、キングジェームスという17世紀に出版された版のものまでは、柔和はmeeknessという英語で訳されています。このmeeknessには、ただ「柔らかい」だけでなく、submissionという自分を明け渡す、神に委ねる、というような受け身・あるいは弱さが含まれています。 その後の版では、humble へりくだって・恭しく、や、graciously感謝を持って、みたいな訳語もあったりして、場所によって統一されていない。humble にいたっては、現代の一般的な英語の聖書でもmeeknessがかつて使われていたところに充てられているのですが、日本語の「柔和」とはあまり被らず、いよいよ神が何をもって「柔和」とするのか、謎は深まるばかりです。 それで気になって、クリスチャンのママ友に話してみたところ、ギリシャ語ではmeeknessはもともとなんだったのかと調べてみたら、と言われました。聖書はもともとギリシャ語で編纂されたものだからです。で、英語でmeek/ meeknessと訳されたのは、もともとPrausというギリシャ語で、この言葉にはすごく深い意味があることがわかりました。 アリストテレスは、このプラウス、あるいはプラウスらしさ、という名詞であるプラウパティアのことを 「 怒りがありすぎて怒りに押し流されている状態」と「怒りが全くなさすぎてダメな状態」の間のちょうど良い状態で「怒りが自制されている状態」を表す、ベストの状態である と考えました。つまり、プラウスな状態にある人は、怒りのバランスを取ることができる、すなわちコントロール可能な「強さ」を持っている、...

アセンション 覚醒すると起きる7つの変化と対処法、特にそれまでスピリチュアルじゃなかった人が目覚めた場合

もうすぐ秋分ですね。私は春分の頃に始まった大きな変化がそろそろ結末を迎えそうになっています。この半年間、色々な変化が起きてきたなら、なんとなく、今、その大団円というか、結末を迎えつつあるのように感じていたりしませんか?そうでないという人は、今年の春、3月20にあたりに感じた課題や、自分に起き始めた変化を思い起こしてみてください。私にとって、この半年間の冒険の結論は「ハートをオープンにし、ハートから生きること」でした。 さて、今日は、霊的覚醒 アセンションが始まると、あなたに起きてくることを7つのものにまとめ、それぞれ鍵となる対処方法とセットでご紹介します。また、もともとスピリチュアルに興味がないひとが目覚め始めるとどうなるのか、ということにも注意を払いながら書きだしたいと思います。 <変化1:  感覚が(超!)繊細・鋭敏になる> 霊的覚醒が起きますと、まず最初に感じることって、世界の感じ方が今までと違うってことです。どう違うのかというと、触覚・嗅覚など、五感が全てものすごく敏感になります。私などは、ものを触るとそのエネルギーがどんどん自分に流れ込んできて、自分が一杯いっぱいになってしまうので、アセンションが起きて当初は、当時はコロナ禍でもなんでもないのに、手袋をして過ごしている時期がありました( 身体的に感じる具体的症状に関してはこちらの記事 をご覧ださい) また、他の人のエネルギーに対して敏感になって、人に会うのが怖くなったりします。これもあなたの「アストラル体」(肉体の先に広がるあなた自身、あなたのエネルギー体といっていいでしょうか)が覚醒によって活発化し、成長しているから、今までは感じることができなかった他の人のアストラル体が感じられるようになっているということです。 触覚や嗅覚などのより肉体的に感じる感覚の鋭敏さも、エネルギーに対する過敏さも、時間の経過によって「慣れて」いき、また落ち着いてくると思います。 ただ、これまでスピリチュアルな感覚が全くなかった人は、特にびっくりですよね。「アストラル体なんて初めて聞くし!なんじゃこりゃ!」となるはずです。この変化が激しすぎるときにどうしたらいいのか?以下、対処法です。 ☆グランウンディングして、自分を癒す、落ち着かせる  感覚が鋭くなりすぎている時は、大地、自然の力を使って落ち着かせるこ...