前回の書き込みからほぼ1ヶ月経ってしまいました。
ご無沙汰してしまいました。
なんとなく、自分の中でアセンションの変化についてがむしゃらに書かなきゃ書かなきゃ、という気持ちがなくなって、まぁこんな感じねぇー、と浮遊して、普通に過ごしている感じのことが最近は多いので、あまり書きたいというインセンティブなかったからと、
夜ほんとにすぐ眠くなることと、
実際に忙しくて書けなかった
からだと思います。
一週間ちょっと海外に行ってたんですが、その前の一週間がほんとに、仕事面で忙しくて、でも頑張ったーという感じ。
その忙しさに関して思っていたんですが、7/17の満月時に書いたアファメーションのことをほぼそのままに反映してるからこその忙しさだったんです。
現実になってるわぁ。。。と思います。
やはりアファメーションをそこ、ここできちんと書いて行くことは大事ですね。
そして、たまたま娘のお稽古の間、お稽古場の近くにある教会でお祈りをしていたら、
聖書の勉強を教会の伝道師の方がしてくださることになり、
昨日のおけいこの間のお話が、とても深いもので、ライトボディ やアセンションが、キリストボディ、ないしキリスト意識と言われる理由が、よくわかりました。
結局、アセンションに関する情報にもキリストのこと、聖書のことが良く出てきますが、すべては聖書に書かれているのかもしれませんし、より深く、アセンションの観点から聖書を読むと、いろいろとわかることがあるのかもしれません。
主の祈り
という一番メジャーなお祈りがあり、これがお祈りの在るべき形を示しているのですが、
ここに、
「神がわたしたちの罪、負い目を許してくださるように、わたしたちも周りの人々の負い目を許せるように」
という意味のところが出てきます。
この部分に関して、伝道師の方とディスカッションをして深く納得したことがあります。
それはどちらが先にあるのか、ということです。
普段から周りの人を許してゆくと心が清らかになり、自分の罪を許してもらえる、ということではないのです。
それはどちらかというと、仏教的な、あるいは儒教の考え方です。
利益優先という感じ。
引き寄せの悪いタイプのものもそうかな。こうやったら、こう報われる、見返りがある、という思考回路。
より大きな幸運がやってくるから、人助けをする、とか。
見返りを期待してやる、ってことです。
そうではなくて、
キリスト、神による大きな許しがまずあり、
その許しと愛があるからこそ、日々出会う苦しみにおいて、許すことができる、ってことなんです。
誰かに対して広い心と許しを与えるためには、
自分のコンディションがよくないといけません。
そのコンディションを整える必要性も、神は認めています。
たとえば、寝不足だったり、空腹だったりすると、優しくなれなかったりします。
そういうことに対しても、主の祈りでは、まず、日々の糧に関する記述があります。
それがあって、
はじめて人を許せるよね、ということを認めてもらっているのです。
つまり、アセンション というのは、
普段良いことを考えているから、
普段優しさを心がけていくから
より良い人間になれるというものではないんですね。
まず、はじめに覚醒・大いなる許し・目覚め・奇跡体験があって、そこで圧倒的な光と愛を感じます。
自分より大きなものを確信します。
それは、つまるところ、キリスト教における「許し」なんだとおもいます。
ずっと罪の意識を抱えて、自分はダメだ、とネガティブにいきがちな現代人にとって、この部分は非常に大きな救いになりうるとおもいます。
この特別な体験を与えて神を発見する機会をくださり、神と宇宙が私を許したということ、
そこにある愛の大きさと深さがあるからこそ、
周りに優しくできたり、
許すことができる。
そういうことなんだろうとおもいます。
アセンションできるから行いを良くする、のではなく、
アセンション できたから行いが良くできる
ということどとおもいます。
アセンション できたから、というと、わかりにくいかもしれませんが、
アセンション が始まるきっかけを与えられたら、でしょうか。
アセンション に意識が向くということは、そのこと自体が、特別な体験を与えてもらっている、ということだとおもいます。奇跡なんです。
あなたに神の光と愛がとどき、
許された
ということなんだとおもいます。
その時点でアセンション している、始まっている、というべきでしょう。
そこからは、神の愛と共に歩む新しい日々が始まるのです。
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