ラインホルド・ニーバーの「Serenity Prayer」が最近何人かの人と話をする中で出てきたので、改めて書いてみたいと思います。日本では「ニーバーの祈り」などと言われることが多いようです。
英語のオリジナルについている日本語訳がどれも微妙なので、今回
英語のニュアンスをきちんと伝えるように自分で翻訳しなおしてみました;
「静謐で澄んだ心の祈り」ラインホルド・ニーバー
神よ、自分の力では変えることのできないものを変えることのできないものとして、
静謐で、澄んだ心で受け入れることができるよう、わたしに慈愛の心をお与えください。
また、変えるべきものを変えるための勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢明さをわたしにお与えください。
一日一日を大事に生き、
その瞬間、瞬間の喜びを最大限味わい、
苦しみは平穏への旅路であると受けとめ、
この罪に満ちた世界を
自分の意のままに変えたいと望むのではなく、
イエス様のように、
あるがままに受けいれ、
神がすべてをあるべき場所へと導いてくださることを信頼し、
神のご意思へとわが身をあけ渡しさえすれば、
今生で与えられた命のささやかな幸せを見出し、
あなたの王国に迎え入れられた暁には、
永遠の幸せを送ることができるでしょう。
アーメン
Serenity Prayer;
God, give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things
which should be changed,
and the Wisdom to distinguish
the one from the other.
Living one day at a time,
Enjoying one moment at a time,
Accepting hardship as a pathway to peace,
Taking, as Jesus did,
This sinful world as it is,
Not as I would have it,
Trusting that You will make all things right,
If I surrender to Your will,
So that I may be reasonably happy in this life,
And supremely happy with You forever in the next.
Amen
いかがでしょうか。世の中にあるありとあらゆる不平・不満・ストレスの原因と解決法がすべてのこの「静謐で澄み渡った心の祈り」に凝縮されているとわたしは感じます。イライラしたり、怒ったり、といった人を悩ます感情の原因の多くが、「他者」を「変えたい」と望んでしまうことに起因していると思いませんか?
たとえば恋愛や夫婦関係におけるなやみの多くは;
「わたしはこうしてほしいとおもっているので、彼・彼女がそうしてくれない」
「なんで彼・彼女はこんなふうに行動するんだろうか、理解できない」
「彼・彼女の特定の行動、趣味嗜好、考え方が嫌だ」
。。。といった悩み。こういった悩みはエンドレスですね。
人間関係において感情的になっているときに、一歩引いて、深呼吸をして、(それ自体が難しいのですが、、、)すこしでも冷静に、静謐に、澄んだ心で=Serene Heart and Mindsで自分と相手を眺めることができれば、
相手に求めていることはすべて、本来「変えられないもの」であるという事実にきづくことができるはずです。
なぜなら、相手は「自分」ではなく、「他者」であるからです。
その人を自分の思い通りにしたいというのは、わかりやすい形のエゴですね。
たとえば、LINEなどで頻繁に愛の言葉をいってくれたりすることを恋愛において女性は求めがちですが、男性は大概そういうものは面倒臭い、と思っています。また、LINEなどのデジタルなツールは人間の本当の気持ち、大事な想いを伝えるのにそぐわないと思っているかもしれません。
「相手に自分の思い通りの人になってほしい」という欲望は、つきつめてみると、自分そのものに相手を変えてしまうということです。では最終的には自分の分身と付き合えばいいじゃないか、ということになってしまいます。
果たしてあなたが望んでいるのはそれでしょうか?
人は、違うからこそ、惹かれ合うのではないでしょうか。
かくいう私も、人間ですから、パートナーに対して色々と思ってしまいますが、基本的に相手に対する不満の芽は、まだ「芽」の状態の時に摘み取ってしまうようにしています。
それこそニーバーの祈りや、聖書の一節を思い出したりしながら。
ただ、不思議なのは、
「あるがままに受け入れる」ことさえできると、自然と世界の方から、あなたの方へと向かって、世界自身が変化をし始めることが往々にしてあるということです。
会社が嫌だ、不満たらたらだ、とおもってくさくさしていたところ、こんな苦虫を噛み潰したように毎日を過ごしているのはよくないと心を入れかえ、ニュートラルに過ごそうと心がけはじめた途端に、とてもいい転職の話が舞い込んできたり、結婚することになったり、あるいは社内の体制変化で状況がかわったり、といったことが起きやすくなるのです。
引き寄せといえば引き寄せですね。
人も一緒。
なんでもっと愛情表現をしてくれないのかな、と不満をもっていたとしましょう。
でも、その人にはその人のペースがあるんだから、私の望む通りに動いてくれるわけではないんだし、相手のことをリスペクトして、信頼して
それこそ、自分の身を「あけ渡すよう」にしていると、
ふとした時に「愛している」と言われるかもしれません。
そういうことなんです。
昨日、娘のバレエのお稽古の保護者見学でした。とても厳しい学校なので、私語は一切禁止だし、常に背筋をぴしっとしてないといけないし、親は一切写真や動画も撮ってはいけないし、とても緊張感ある空気なんです。そんな中で、娘も最初は多少顔がこわばっていたのですが、ぐるぐるスタジオを音楽に合わせて自由にまわっていいエクササイズの時になると、満面の笑顔でわたしの前にきて、必死にアピールして、手を振って、投げキッスで、声には出さないけどI love youと言います。
わたしが、もっとみんなと一緒にまわりなさい、とうながすようにすると、遠ざかるのですが、遠ざかりながらもひたすらに投げキッス。
その様子に、周りの保護者の方が大ウケして、やっと空気が和みました。
昔のわたしだったら、
「なんで他の子みたいにきちんとやれないの!」とキレキレだったかもしれません。
でも、その様子をみながら、この子はこの子の良さがあるから、それを尊重してあげるべきだな、と感じました。そう感じられたのはおそらく、娘が全身全霊でわたしへの愛を表現していたからなのだと思います。
家に帰ってから、その様子をみた時の話になりました。
「あなたは他の子と全然違うのね。でもそれでいいのだと思ったの、色にも赤、黄色、紫、っていろんな色があるからレインボーがあるんだから、みんなが同じ色だったら、つまんない世界になっちゃうものね」
というと、娘は大きくうなづいで、
「わたしはママのことが大好きなの。たぶん、他の子がじぶんのママを好きなよりもわたしがママのことを好きな気持ちが大きいみたいなの」
というので、
「それは私とあなたが天使や神さまとお話しできたりして、いつも愛について話していて、特別な関係だからかな?」
と聞くと、
“Yes, we are special.”
という返事。
すぐ色んなことに目が行ったり、他のこを助けてあげたくて、自分の作業が遅れてしまいがちな娘。それをもうすこし自分の作業に集中するようにしてくださいと学校の一人の先生に言われました。
でも別の先生からは「彼女はスローモーションなんです。だからといって、早送りのペースの子が正解なんでしょうか?違いますよね。なんでもパッパパッパ手際よくマシンガンみたいに進める人がいます。でもそういう人はいつも焦って不安になりがちかもしれないですね。いっぽうで、あなたのお嬢さんのようにゆったりペースの子は、一緒にいると癒されるし、たくさんのひとがよってきます。その良さをなくせばいいのでしょうか?いいえ違います」
と言われたんです。
もちろん、ある程度まわりにあわせられるように努力をする必要はありますが、程度というものがるなと感じました。
娘が他の子と違うことは、ニーバーの祈りの「変えられないもの」である部分も多分にあると思うのです。であるとすれば、私は賢明にならなければいけません。
賢明になるためには、静謐で、澄み渡った心もちである必要があります。
でも、常に心は動揺しがち。
ということはつまり、常に、落ち着いて、ゆったりとした愛で心を満たして、ニュートラルな心の状態でいられるようにすることが、何よりも、
「幸せ」への近道となるのではないでしょうか。
この暖かい日曜日の残りの時間をあなたが、
天国と宇宙があなたにもたらす最高のプレゼントとして感謝し、
おだやかであたたかな愛に満ちた心で過ごせますように。
Amen.
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