ちょっとご無沙汰しておりました。
毎週日曜午前は、娘の長時間お稽古の間スタバにきてブログを、書くのが日課だったんですが、やらなきゃいけないことが多かったり、Wi-Fiの調子が悪かったりで書いていませんでした。
今日、設定からWi-Fiを一旦削除してもう一度繋ぎ直すことを思いついてやってみたら、うまくいぅたのでhere I amでございます。
ちなみに、私が大好きなネットフリックスのStranger Things ストレンジャーシングス、のシーズンフォーのトレーラーが公開され、わたしは思い通りの展開になっているようでとてもワクワクしています。
早く見たいわ!
さて。最近ずっと仕事のことで悩んでおり、それに伴ってプライベートもがたがたして、ストレスマックスでした。
次のステップに移るにために、どうしてもきになることがあって、それが悩みタネになっており、踏み切れないもの、があったんです。
それが先週、突如として、まったくの予測不能の大きな出来事があり、解決してしまったのです。
こればっかりは神様、どうしても気がかりというか、吹っ切れないよー、と祈る中で、伝えてきたこと。
それが、社会を動かすニュースとともに、解決。
まだまだ時間がかかるはずの事柄だったはずが、解決。
それによって、やはり進むべき道は一つしかないと、より明確になりました。
これも、引き寄せ、というか。。。引き寄せというのはつまり、「導き」なんだなと強く思いました。
というのも、その解決は、いろんな組織のたくさんの人が、多くの偶然の決断をくだし、天文学的な偶然が重なって起きないことには、もたらされないものだから。
わたしの周りの誰もが、予測していなかった事態。
社会をある程度動かすほどの出来事が、わたしの人生のなやみにどんぴしゃりと働きかけるものとなった、ということは、
いい加減ふっきりなさい!答えは一つ!と言われてるんだなと思ったし、
悩みを解決してください、お導きください、と神様に委ねていると、導かれるんだなぁと感じました。
だから、「引き寄せ」とは、お金を引き寄せる、とか、そういう個別の、矮小化された出来事にまつわる自己啓発論ではなく、
大きなものを信じ、心をオープンにし、恐れと不安にとらわれるのではなく、身を委ねる、神と宇宙のお導きに委ねることで、自ずと進むべき道へと導かれ、進むべき方向に必要なものを「結果として)引き寄せる、ということなのだと思います。
マルコの福音書の中に、イエス様が、人間の悪は、心の内から生まれるということを説かれる箇所があります。
ユダヤの律法学者たちが、食べ物の作法を守らないイエスの弟子たちを批判するのをみて、
「食べ物や、食べ方が悪を生むのではない、大事なのは人間の心と魂の姿勢である」と諭されるところ。
放っておけば、人は猜疑心や嫉妬、憎しみ、怠惰に流され、どんどん悪い方向へと向かいます。
誰かを嫉妬したり、疑ったり、不信感を抱くのは、本能的なものです。
だから、大事なのは自分の中にそういった感情があることを恐怖したり、蓋をしないこと。
大事なのは、向き合うことです。
向き合うのは、難しいことです。
コンプレックスとからみあった嫉妬、そこからの猜疑心は、なかなか向き合うのが難しい感情です。
でも、ひとはよくそういった感情に突き動かされていますよね。
その感情と向き合うことで、初めてより良い人間なる、それらの感情を克己するきっかけが生まれる。
そうしなければ、本能のままに醜い感情に突き動かされるモンスターと化してしまいます。
向き合うことは、けっこうきついです。
自分の醜さ、至らなさをしみじみと感じることどから。
でも、それらに向き合える勇気が持てて初めて、「それは許されている」ということの大きさを知り、生かすことができる。
原罪、という言い方をお聞きになったこと、あると思います。
キリストは、そういったわたしたちの一切の罪を背負って、十字架に張り付けになられた。
それは、象徴的なものとして、とらえると、わかりやすいかもしれません。
人々の恐れと、猜疑心、嫉妬が、一人の人として生きた神の子を世にも残酷な形で死に追いやった。
でも、最後まで、その人は、隣に、同じように奴らが張り付けになっている、罪人への愛の気持ちを失わず、自分をしに追いやり、苦しみを与えている人たちを、憎みはせず、受け入れて、張り付けになった。
人間の悪の本性を照らし出し、それは、「許されている」といってくれた。
それは、わたしの個人的な解釈ですが「それらの感情、つまり自分の「罪」に対して気がついた人にのみ」、与えられる「許し」なのだと思います。罪の意識がなければ、許される必要もないですから。
だから、心の、中から、湧き上がる全ての想い、感情を、すべて「受け容れる」ことが大事なのです。
怒りを受け容れる
悲しみを受け入れる
嫉妬を受け入れる
猜疑心を受け入れる
受け入れることはすなわち、向き合うことです。
向き合うことは、勇気あることです。
その勇気を持てたひとは、許されます。
許しとは、その醜く低い場所から、一歩一歩、抜け出して成長してゆく機会を与えられるということです。
そうやって受け入れて、許されて、明るい方、光のある方へと進んでゆくと、導きのスケールがどんどん大きくなり、自分に与えられた使命がはっきりしてくるでしょう。
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