現代のスピリチュアルな言説やSNSを見渡すと、「目覚め」や「覚醒」を誇示し、特別な能力や教えを他者に誇示する姿や、生命の根源的エネルギーであるクンダリーニが「超・性的エネルギー」という表現をされることから、性的な快楽にフォーカスを充てた言説を多く目にする。しかし、古代から伝わる伝統の真髄において、本当の覚醒はまったく異なる姿をとる。
そもそもヨガからヒンドゥー教、さらには仏教に至るまで、あらゆる修練・修行の真の目的は、超能力を得ることでも他人より優位に立つことでも、サイケデリックな体験をしてハイになることでもない。それは「宇宙と自分は分離している」という人間にとって最も苦しく悲しい思い込み・バグ、に気づき、宇宙の本質である至福(Joy)に包まれ、より完成された存在として軽やかに生きることだ。
この目覚めのメカニズムを、身体と意識、そして宇宙論と関連づけて最も深く掘り下げたのが、インドの「タントリック・シャイヴィズム(カシミール・シヴァ派)」である。
カシミール・シヴァ派では、覚醒の鍵となるクンダリーニ(宇宙の根本エネルギー)の上昇を非常に慎重に扱う。なぜなら、クンダリーニとは宇宙の根源であるシヴァ(絶対的意識)との一体化の回路であり、通常の肉体と精神にそれが起きる際のインパクトは強烈だからだ。未熟なエゴを抱えたままこのエネルギーに触れると、「自分は特別に選ばれた人間だ」という錯覚に陥り、あらぬ方向へ転落してしまう危険がある。
だからこそ経典は、すでに確立された儀式や、信頼できる師(グル)からの指導・保護(Initiation)のもとで安全に段階を踏むべきだと説いてきた。そして、その内実や具体的方法が多岐にわたり、個人差が大きく、言語化が難しく、かつセンシティブな内容であることも多いために、長らく「秘儀」=Esotericとされ、広く公に知られないままに何世紀もの時間を経て智慧が蓄積されてきた体系であるからこそ、その総体はTantra=密教、と言われる。
しかし、この厳格な体系を築いたタントリック・シャイヴィズムにおいてすら
「いかなる人間の師も介さず、完璧に自発的な目覚めを果たす最高峰の開花」
が存在することを示している。
人間を介さない「ダイレクトな恩寵」
宇宙の根源(シヴァ)からもたらされるエネルギーの点火を「シャクティ・パータ(恩寵の降下)」と呼ぶ。通常は地道な修行や人間の師を経て授けられるが、ごく稀に、宇宙の知性・意識=シヴァが「この肉体を自らの直接の乗り物(器)にする」と決めた時、天からダイレクトに突き刺さるような強烈な恩寵が降りることがあるとされる。
「Tivra
Shaktipatティヴラ・シャクティ・パータ(強烈なる恩寵の降下)」である。
カシミール・シヴァ派の大聖者アビナヴァグプタは、その大著『タントラーローカ』において、人から教えを受けて目覚めた者を「サンスカルタ(教えられた者)」と呼ぶのに対し、宇宙から直接目覚めさせられた者を「サディヤ・グル(Sādhya-guru:自ら目覚めた師)」、あるいは「プラティバ(Pratibhā:天授の直感的知性を備えた者)」と呼び、最高位の解脱者として位置づけた。
経典に記された「サディヤ・グル」の真の姿
アビナヴァグプタや古代の聖典が描く「サディヤ・グル」の姿は、私たちのステレオタイプな「教祖」のイメージを大きく裏切る。
彼らは、数百万人に一人という極めて稀な存在でありながら、どこかの山奥の洞窟で一心不乱に瞑想しているわけでもなく、村長や商人など、ごく普通の市井の人間として社会の中に溶け込んで生きている。
彼らの内側は完全にシヴァの意識へと憑入(アーヴェーシャ:Āveśa)されており、自らの宇宙的な使命を自覚し、完璧な喜び(Joy)と一体化している。しかし彼らは、自らを「私は覚醒者だ」「グルだ」と宣言することはない。なぜなら、真の目覚めが起きた時、「自分は特別だ」と主張したいエゴそのものが消滅してしまうからだ。
経典は彼らの肉体的な特徴をこう記述する。
·
目は生き生きと輝き、お肌は内側からの発光(テージャス)によって年齢を超えて瑞々しい。
·
無駄な筋緊張が消えた身体の動作は、まるで舞踏家(ダンサー)のように美しく滑らかである
彼らは言葉で説教するのではなく、ただその場所に存在するだけで、周りの人々や環境に清らかな影響をもたらす。アビナヴァグプタは「彼らは決して表舞台で己を誇示しないが、この世界に確実に存在している」と書き残している。
本物と偽物を見分ける「余裕と心地よさ」
昨今、SNS等で自らの「生前解脱(ジーヴァンムクティ)」を声高に主張し、選民思想や、私に従わないとクンダリーニを目覚めさせられないといった脅迫的な口調・言葉で人を従わせようとする姿が見受けられる。しかし、宇宙と完全に一体化した「サディヤ・グル」の放つエネルギーは、まったく逆の性質を持っている。
真の恩寵を受けた人の基本となる雰囲気は、驚くほど
「ふわっと柔らかく、軽やかで、いつでも楽しそうで、余裕がある」ものだ。
眉間にシワを寄せて他者を否定したり、人々に不安や恐怖を植え付けて従わせようとするものは、真の目覚めから遠く離れたエゴの力みに過ぎない。本物の存在は、威圧ではなく、圧倒的なオーラと「一緒にいるだけで心がほどけるような心地よさ」を自然と醸し出す。
クンダリーニの覚醒を体験し、タントリック・シャイヴィズムを現代ならびに欧米世界に伝えた功績を知られるスワミ・ラクシュマンジュという師がいるが、彼の残された8ミリフィルムのインタビューを見ると「クンダリーニが活性化したとき、それが正しい現象、恩寵であるとどうわかるのですか?」という質問をされたときに、彼はこう答えている;
「それはその人が自ずからごく自然に知るのです。それはもともと知っていたエネルギーと感覚であるという記憶があるからです。そうなった瞬間、その至福はそれまでに体験していたことの無い、強烈なもので、それが何であるかの知恵とともに立ち上がるので、すぐわかるのです」。
つまり、たとえその覚醒が宇宙からダイレクトに選ばれて起きたものであろうが、人間のグール―に師事して起きたものであろうが、覚醒や、生前解脱のプロセスがひとたび「起きる」と、その人はすべてを悟るのだ。読んでいなくても、勉強していなくても、それが何で、そのエネルギーの出所がどこで、そうなったら何をすべきで、どこに向かえばいいのか、全ての質問への答えは、そのエネルギーがその人の体をかけめぐって変えて行く間に自明のものとなり、やがて質問自体も湧きあがらなくなる。その人自身が、宇宙の摂理を「身をもって知る」からだ。
なぜなら、ここが一番重要なのだが、もともと私たち人間は、そしてこの宇宙に存在する生きとし生けるものの全ては、それ、根源意識、シヴァから生まれていて、シヴァそのものであるからだ。悲しいかな、人はそのごく当たり前のことを、いったん忘れさせられて、この世界に生み落とされる。覚醒は、その本来あったはずの記憶を取り戻す過程に過ぎない。
その記憶がもどれば、すべての摩擦が消え去り、ただ滑らかに、まろやかに世界と調和して生きる存在になる。それこそが、古より「プラティバ」と呼ばれてきた、自発的に開花した魂の真実の姿。クンダリーニが目覚めれば、それとすぐわかるように、プラティバを前にすれば、人は誰しもきっとなにがしかのことを感じるだろう。そして、それは決して不安や恐れや渇望ではなく、満ち足りた豊かさだ。
コメント
コメントを投稿