ヨグマタ相川圭子さんの御本から引用:
食べ物や飲み物をいただくとき、嫌な感情からフリーになるって、ほんと、いい気分。
高次元の神聖なエネルギーにつながってゆくと、それまで苦しんでいた問題や悩みが幻想に過ぎなかったと気づきます。
さまざまな小さなこだわり、執着や欲も自然に外れ、あるいは手放すことができ、自然になって楽になるのです。
そしてその人の本来の輝きや、さまざまな可能性が現れます。
その美しさが周囲や人に伝わっていくのです。---信頼することで、ストレスや不安で曇っていた表情は明るくなります。--人は太陽のように輝く光そのものです。まず、あるがままの自分を愛します。そして慈愛を育み、みんなを幸せにする存在になっていくのです。
あなたの意識は、こだわりから解放され、進化します。-あなたはそうした希望ある生き方をしていくことができるのです。---
ここ数日、はっきりと感じている変化があります。それはわかりやすくはヨガに現れます。
今日は、休みなのですが、娘の学校はあるので、合間の時間にヨガに行って来ました。
ものすごく久し振りに、シャバーサナという最後のアーサナ、死体のポーズ、とも言われていますが、無に帰るポーズで、意識がなくなりました。
最近は、とはいえたくさんの雑念があったので、いろんなことを考えて、いつのまにかシャバーサナの時間がおわり、今日も無に帰れなかった、と若干残念な気持ちでおわることばかり。
それが今日は本当に、一旦プツッ!と自分がオフになって、先生が鳴らす鈴ではっと「我に帰る」格好。
本当に無になれた。
その理由なんですが、また一つ大きなブロックが取れたから、なんだと思います。
そのブロックとは、食べ物へのブロック。
こないだイベントで、面白い青年起業家と会いました。
さまざまな障害を持つ方に事務関係の仕事をアウトソースしてもらう会社を立ち上げた、とのことで、その場でなんでまたその会社を立ち上げたの?という話になり、彼の話がとても、興味深かった。
外資系の製薬会社で心療内科を専門に、抗うつ剤などをうる営業だったと。
売ってる時はなんでこんなに鬱になる人がいるのかと思っていたけど、必死に売ってるうちに自分がうつになり、摂食障害になった、これじゃいいかんと一念発起して会社を辞め、ただ薬を与えるんじゃなくて、ちがう形で働く形を提供しないと、そういう場所から救われるきっかけがない社会になる、と考え、自分のような形で働けなくなったりした人たちに、仕事をアウトソースする社会的責任のある方企業を立ち上げたと。
すごい話。。。その場にいた人はみんな、何の気なしにそう語る彼の、いまの爽やかなソーシャル起業家としての風貌の彼の向こうに、壮絶な苦しみと、そこから立ち上がり、同じような場所に陥る人が一人でも少なくて済むように、いまのビジネスを始めた、これまた壮絶なエネルギーを感じて、一瞬みんな絶句してました。
その場で彼は、摂食障害とはいってなかったんだけど、あとで彼の会社のサイトをみたら、「摂食障害」って書いてあった。
私と姉がいっしょになると、いつも、私たちは姉妹は、みんな多かれ少なかれ食べ物との関係が歪んでるところがあるよね、という話になる。
それは、母親との関係と関係しているところがあるんですが、まぁそれはおいておいて。
日本の女性はみんなそうだろうとおもんだけど、か細くて、色白で、男性のうしろについていくタイプの女性が良いとされる、美の元型の呪縛はすごく根深いものがあり、みんなそれに多かれ少なかれ囚われているとおもう。
わたしは、肩幅があり、身長があり、いわゆる「大柄」で、なおかつ「地黒」なんだけど、それをコンプレックスに感じている時代が長くて、とにかく細くなりたい、大きいなら、せめて細くはならないとだめ、という意識が強くて、
仕事でも、人間関係や恋愛でも、なにかうまくいかないと「細くないから、太ったから、十分綺麗じゃないから」のせいにして、必死にダイエットをして、リバウンドして、の繰り返し。
時には危険なくらい痩せてしまって、いってみれば拒食とオーバーウェイトをいったりきたり。
そういう人って、実はびっくりするほど多いと思うんです。
それがむしろ当たり前になってしまっている現代社会。
こうならなくちゃいけないという社会的評価ばかりを優先してしまい、自分自身の物差しで自分を評価できなくなってしまう。
だから、自分の体を世間の物差しに合わせようとする。そこで摂食障害になる。
わたしは、随分長いこと、罪悪感や、うしろめたさや、なんらかの衝動に突き動かされた、つまり、なんらかのネガティブな感情なしにご飯を食べていませんでした。
それが、最近は、なにも考えずに食べ物を食べられるようになっています。
いつのころからか、そうなって、でもそれはかなり最近のこと。
いろんなこだわりから解放されてきたようでいて、食べ物という根源的なもののブロックからは自由にはなっていなかったのです。
痩せていないと誰かに愛されない、というのも、現代女性に共通した強迫観念。でも、これは二重に間違ってる。
なぜって、まず誰かに愛されなくても、自分で自分を愛してあげなければ、社会が植え付けたインナーチャイルドの愛情飢餓感は満たされない、解消されない。
そして、誰かに愛されなくても、自分は完璧な存在であり、神に愛されていて、すべてはみちたりていて、パートナーがいなくても、完全なのであるということか基本なのに、そのことを忘れてしまっている、まぁこれが一番難しいのだけど。。。
そして、本当に愛していくれる人は、自分の魂を愛すのであって、太っていようが、痩せていようが、関係ないってこと。
むしろいまのわたしは、世間的な尺度で「痩せて綺麗」な状態であると、変な虫笑、が寄ってきやすいので、適度な脂肪で包まれている現状の方が安全で良いと思って気楽でございます。
食べ物や飲み物をいただくとき、嫌な感情からフリーになるって、ほんと、いい気分。
そしてそのこだわりが取れると、ほんっとにおかしなこだわりに囚われていたんだなぁ、と相川さんの言葉がしみじみと理解できます。
一日中向き合っている食べ物を摂取するたびに生まれていたネガティブな感情から解放され、気持ちよく、最近はシャバーサナに入れているのかと思います。
不幸せは、妙なこだわり、執着、obsessionからきます。
ちょっとずつ、そういったこだわりを見つけて除去してゆくことで、どんどん幸せになってゆきます。
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