2009年にわかりやすい形で目覚め、アセンションが始まり、10年経ちます。当事、超心理学の本を読んでクンダリーニについて調べたところ、大抵の場合「10年くらいで1サイクルが終わる」という記述がありました。
それは実際にその通りだったな、という感じがしています。
さまざまな超常現象?的な身体現象は、落ち着きました。数ヶ月前くらい、今年五月ごろが一番激しかったのですが、大きな試練を乗り越えてからはおちつき、揺れやグラつきは時々おやっ?とおもう程度で恒常的にあるわけではありません。
食欲の暴走も、おさまり、気分の大きなアップダウンもおさまってきました。
一番の変化は、そういう変化に一喜一憂して振らされていたのが、全くなくなったこと。
それはそれ、と納得していること。
全ては「神のみわざ」であり、奇跡が起きたのだ、ということ。
その奇跡をやかましく喧伝するのではなく、奇跡がつづいて、神の導きがはっきりとわかり、腑に落ちた感じで、たんたんと神の教えを守りつつ、愛と優しさと義で、前にすすもうと決められたことです。
パウロのコリント人への手紙に、イスラエルの民がいかに神の教えに背き、さまざまな試練を与えられたかが書いてありますが、最終的なメッセージは、それでも神は乗り越えられない試練は与えない、とはっきりといっていること。
これまでのわたしに起きた試練は、
わたしの方向を修正させるためであったり、
なんらかの導きのために与えられているのが、その後の人生の流れを見てわかります。
そして、その先の人生をきちんと生きるために必要なレッスンを与えられているのだということも。
この2ヶ月くらい、たまたま娘のお稽古中にお祈りするためにふらっと入っていたプロテスタントの教会で、どうせなら聖書の勉強をして一緒に祈りませんか、と誘われ、
はじめてきちんと聖書を勉強しています。
その中で、原点に帰った気がしています。
スピリチュアルな世界で、アセンションを語るときに「愛と光」といいますが、この根本はキリスト世界の愛と光で、やはりその根本は聖書を勉強してみないと、なかなかわかりにくい。
「引き寄せ」みたいな即物的なものをとっかかりに入ると、余計そうなんです。
基本は、「はじめに光があった」、これはビッグバンのことですね。
そして、そこから「創造」があった。でも、人間は堕落してしまった。
その罪の贖罪のために、神の代理人であるイエス様が遣わされて、磔の刑に合う犠牲をはらって、わたしたちの罪を贖ってくださった。
そのイエス様の姿をうけて、多くの民が、きちんと生きなくてはいけない、と我に返った。
そして、その許しこそが、大きな犠牲を払われたイエス様の愛であり、神の愛であり、光である、ということ。
まずはじめに、わたしたちは、一人一人許されているのだということ。
その愛の重大さを知ったとき、はじめて、何の見返りの期待もなく、愛に満たされた広い心と
他者をも許せるようになる、ということです。
アセンションは、もともと聖書に出てくる「昇天」です。
そして、キリスト・ボディと、ライト・ボディは同語です。
アセンションして行くことは、キリストと一体化していくこと、
人間の今まで生きてきた道のりを自分の身で受け継いで、キリストと神の愛と光で満たしながら、キリストの教えを実践していくこと。
本当の意味で、キリストの教えを徹底させることは、やはりアセンションをしていないとできないな、と感じます。
小さなイラッとする出来事に到るまで、本当に許せること。
そういったことまで、生活の中で徹底できるかどうかは、やはり大きな愛で満たされていることがまず大事だとおもいます。
いま、わたしの頭の中には、いままで起きてきたアセンションの過程でのいろいろな象徴的な出来事が、渾然一体の走馬灯的な記憶のスープのようになっています。
どれか一つのトラウマが際立っているわけでもなく、トラウマとして存在しているわけでもなく、その他さまざまな体験と並列して、ふわふわぐるぐると浮かんでいる。
そしてそれぞれに、それほどもはや重要性はない。
大事なのは、いま、毎日、毎秒を正しく豊かに、愛溢れる心で生きること。
そのために全力を尽くしたい、その一点につきます。
そして、なにか難しい状況に陥った時や、怒りがこみ上げたときは、心の中にイエス様を思い浮かべるようにしています。
そういう方が本当に2000年くらい前に遣わされたということ、そして、全体重の重さで、腕と足が、磔になった十字架に打ち付けられた杭からぶら下がって引き裂かれながらお亡くなりになったということを思い浮かべることにしています。
そうすると、感じるのです、私たちがここにいる意味深さと、感謝と、humbleになる気持ちを。
そして、アセンションの過程で感じてきたさまざまな現象、たとえば自分が触れたり、エネルギーを送ると水の表面張力が強くなること一つとっても、イエス様が水の上を歩かれたことを思いださされ、そんなことあるわけなかった、のではなく、神の奇跡と、そして宇宙の物理的法則の間にはなんの矛盾がなく、光を一身に集める高エネルギーの存在がいれは、分子と分子の間の密着力を高めて状態を変えることだって可能だって、現実的におもうし、ああ、ほんとに起きたことだったんだな。。。そして、こういうことがたくさんの人に「アセンション」という形で起きていることは、何か大きなblessing 祝福が世界全体で起きているんだな、ということがわかります。
そのために起きてきたさまざまな、アセンションの症状だったのだな、とよくわかります。
タイトルにある、アセンションが進むと、アセンションがどうでもよくなる、ということですが、
いま、そんな風に、アセンションの根っこにある本当のこと、つまりキリスト教の世界観にあらためて邂逅することで、過程で起きてきたひとつひとつに固執する必要がなくなり、あとは目指すことのみをひたすらに実践していきたいという状況にきたことから、
いままでの、こだわりや固執が雲散霧消したことを意味します。
あなたの日々に神のご加護がありますように。
Amen.
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