日々の小さな出来事、他人に言われた小さなことに一喜一憂してしまうことに、最近は悩んでいました。
悩むことに悩んでいた。
他人に言われた心ないこと、と感じることも、究極的にはその人はわたしとは別の人間なんだし、育ってきた環境も、全てが違うんだから、わたしにどう受け止められるなんて考えることなしに言ったことが、どうわたしに受け止められたかなんて、その人には知る由もない。
だから、気にしたって仕方ないし、
そういうことにこだわって気分を左右されてしまうことが、安定と平和を乱すし、愛が足りてないなと、感じることが最近多くあります。
それについて、教会で伝道師さまにお話ししたら、以下の部分を示していただきました:
コリント人への手紙第一、13章1〜7節“たとえ私が予言の賜物を持ち
あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても
たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら私は無に等しいのです。
たもえ私が持っているもの全てを分け与えても
たとえ私のからだを引き渡してしまうことになっても、愛がなければ、なんの役にも立ちません。
愛は寛容であり、
愛は親切です。
また人を妬みません。
愛は自慢せず、
高慢になりません。
礼儀に反することをせず、
自分の利益を求めず、
苛立たず
人がした悪を心に留めず、
不正を喜ばずに、
真理を喜びます
すべてに耐え、
すべてを信じ、
すべてを望み、
すべてを忍びます。”
ここに、日々、心がけることはすべて入っています。
朝、お稽古に行く準備で急いでいるとき、今朝も娘がのろのろとしていて、おもちゃを持って行こうとしたりする娘にイライラしてしまいました。
それも、愛のないことです。
愛がないな、と自分で嫌になります。
ただ、そんな私をわかっている娘は、
ママは急いでいるとき急に怖くなる
急いでいても優しく言わないといけないのよ
と、さとされました汗
私より大人で、
一応許してくれている。
でもそれに甘えず、自分を律していかないといけないなと思っています。
今日一日、愛溢れる自分でいられますように。
Amen.
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