見返りを求めないで、まずは心をただすことが引き寄せ本来の目的だってことを書きましたが、昨日、台風で学校が休みになり、リモートワークにしてもらって、比較的のんびりした夕方を過ごしているとき、かりてきたサリンジャーの映画をみました。
https://www.rebelintherye-movie.com/
『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』
わたしは、このブログでもだいぶ前に結構書いたんですが、サリンジャーにかなり影響を受けています。
特に「グラース家」の物語と、シーモア・グラスに。
『ライ麦畑』を出した後に、シュリ・ラーマ・クリシュナの思想と哲学に出会い、ヨガに目覚め、自分自身と向き合うことで戦争の傷とすこしずつ向き合えるようになったサリンジャーの姿が、とてもよく描かれています。
その中で、もともとエゴが強く、自分の才能に自信があるが故にまわりに認めてもらいたいという自己顕示欲に突き動かされながら書いていたサリンジャーに、『ストーリーズ』の編集長が「何の見返りも求めず書くのが本当の作家だ」と言ったとおりに、
真の意味で見返りを求めない書き方、つまり「出版しない」という道を早くに決めた姿を鮮烈に描き出していて、すごく考えさせれられました。
シーモア・グラスという穏やかだけれど、深い苦しみを抱えた主人公を中心に描かれるグラース家の物語を読んで、シーモアはなんとなく戦争にいって変わってしまった、ということはわかるのだけれど、その戦争がどういうものだったか、いまいちわからなくて、シーモアの苦しみの源にあるものがよくわかっていなかった、と感じました。
そうか、サリンジャーはD-day でノルマンディ上陸を果たすという第二次世界大戦でもっとも苛烈な部隊に配属されていたんだな、とか、
ユダヤ人強制収容所の解放をおこなった、つまりそこにあった地獄を目撃したんだ、とか、
そういうことがわかって、より自分が彼の作品群から受けた衝撃と影響を深く感謝できるようになりました。
映画の中で、本当の幸せをみつけるためには、見返りを求めない、社会からの評価や、成功と関連付けられる存在のあり方を変えないといけない、と考えるようになったことが描写されていきます。
人に認められること。たくさんのフォロワーがソーシャルアカウントでいること。雑誌に載ったり、メディアで取り上げあられたり、テレビで売れっ子になったり。
そういうことが自己評価と同化して語られるのが今の世の中、世界観。
そういう状態に、サリンジャーの生き方って、真っ向から疑問符を突き付けています。
そういう状況になっても「評価」なんて気にしなければいいのかもしれませんが、人間そこまで強くないし、まず巻き込まれないようにすることで、心の平穏を無理やりにでも保つことができる、そしてサリンジャーにはそうする必要があった、ということなのでしょう。
私も、かつてはダイレクトにそういう世間的な名声とか評価に振り回される立場に身を置いていましたが、それでは精神の正常さと、日々の平穏、つまり幸せを保てないなと強く感じ、表の仕事に終止符を打ち、企業人として生活しています。そこでわかったことは、
表に出ているか出ていないか、にかかわらず、
「見返りを求めないこと」
は人間の心の平穏・安定・平和にとって、必要不可欠なのだ、ということです。
なにかのプロジェクトで頑張っても、それが評価を求めてのことであれば、評価を受けなかったときに(昇進などで)がっかりします。
もし評価を求めずに、自分が信じてそれが正しい、社会にとってよいことだとおもって頑張ったのであれば、評価を受けなくても気にならないし、評価を受けたら意外な嬉しさを感じることができるでしょう。
前者も後者も、本人の仕事の内容自体は変わらないけれど、周囲の環境への依存度が異なり、結果的により幸せ度が高いのは後者のほうです。
しかも、他人の考えていることなんて、最終的にはわかりっこないし、実際にやった仕事の中身ではなくて、その時の経済状況とか、上司の家庭の状況とか、いろんなどうしようもないことに左右されます。
だったら、他者からの見返りなんて求めずに、自分が楽しいから、いいと思うから、一生懸命やればいいだけの話ですよね。
でも、、、最後に付け加えたいのは、、、
サリンジャーは、すこし早すぎたのではないかな、とおもいます。
理解してくれる人にあえなかった、彼みたいな価値観の人が同時代に極端に少なかった、、、。だから、隔離して隠遁生活を送らざるを得なかった。
その過程で、愛する人たちを阻害してしまったことは、彼自身、作品の中で苦悩しています。
愛する人、つまり母からのスープでさえ感謝できないのであれば、より大きな神や宇宙の愛なんて語る資格は無い、そんな描写が『フラニーとゾーイ―』で出てきます。
でも、そうせざるを得なかった。
そのことはきっとずっと彼を悩まし続けたのではないかなと思います。
見返りを求めずに、自分のやりたいことだけをやる、のではなく、
正しいこと、義のあることを行い、キリストの教えを実践し、愛に基づいて行動することです。そうすれば、自分が宇宙と近くなったからといって、元々自分の近くのいた人たち、家族など、を阻害する必要もなくなりますし、そういうことはできなくなります。
https://www.rebelintherye-movie.com/
『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』
わたしは、このブログでもだいぶ前に結構書いたんですが、サリンジャーにかなり影響を受けています。
特に「グラース家」の物語と、シーモア・グラスに。
『ライ麦畑』を出した後に、シュリ・ラーマ・クリシュナの思想と哲学に出会い、ヨガに目覚め、自分自身と向き合うことで戦争の傷とすこしずつ向き合えるようになったサリンジャーの姿が、とてもよく描かれています。
その中で、もともとエゴが強く、自分の才能に自信があるが故にまわりに認めてもらいたいという自己顕示欲に突き動かされながら書いていたサリンジャーに、『ストーリーズ』の編集長が「何の見返りも求めず書くのが本当の作家だ」と言ったとおりに、
真の意味で見返りを求めない書き方、つまり「出版しない」という道を早くに決めた姿を鮮烈に描き出していて、すごく考えさせれられました。
シーモア・グラスという穏やかだけれど、深い苦しみを抱えた主人公を中心に描かれるグラース家の物語を読んで、シーモアはなんとなく戦争にいって変わってしまった、ということはわかるのだけれど、その戦争がどういうものだったか、いまいちわからなくて、シーモアの苦しみの源にあるものがよくわかっていなかった、と感じました。
そうか、サリンジャーはD-day でノルマンディ上陸を果たすという第二次世界大戦でもっとも苛烈な部隊に配属されていたんだな、とか、
ユダヤ人強制収容所の解放をおこなった、つまりそこにあった地獄を目撃したんだ、とか、
そういうことがわかって、より自分が彼の作品群から受けた衝撃と影響を深く感謝できるようになりました。
映画の中で、本当の幸せをみつけるためには、見返りを求めない、社会からの評価や、成功と関連付けられる存在のあり方を変えないといけない、と考えるようになったことが描写されていきます。
人に認められること。たくさんのフォロワーがソーシャルアカウントでいること。雑誌に載ったり、メディアで取り上げあられたり、テレビで売れっ子になったり。
そういうことが自己評価と同化して語られるのが今の世の中、世界観。
そういう状態に、サリンジャーの生き方って、真っ向から疑問符を突き付けています。
そういう状況になっても「評価」なんて気にしなければいいのかもしれませんが、人間そこまで強くないし、まず巻き込まれないようにすることで、心の平穏を無理やりにでも保つことができる、そしてサリンジャーにはそうする必要があった、ということなのでしょう。
私も、かつてはダイレクトにそういう世間的な名声とか評価に振り回される立場に身を置いていましたが、それでは精神の正常さと、日々の平穏、つまり幸せを保てないなと強く感じ、表の仕事に終止符を打ち、企業人として生活しています。そこでわかったことは、
表に出ているか出ていないか、にかかわらず、
「見返りを求めないこと」
は人間の心の平穏・安定・平和にとって、必要不可欠なのだ、ということです。
なにかのプロジェクトで頑張っても、それが評価を求めてのことであれば、評価を受けなかったときに(昇進などで)がっかりします。
もし評価を求めずに、自分が信じてそれが正しい、社会にとってよいことだとおもって頑張ったのであれば、評価を受けなくても気にならないし、評価を受けたら意外な嬉しさを感じることができるでしょう。
前者も後者も、本人の仕事の内容自体は変わらないけれど、周囲の環境への依存度が異なり、結果的により幸せ度が高いのは後者のほうです。
しかも、他人の考えていることなんて、最終的にはわかりっこないし、実際にやった仕事の中身ではなくて、その時の経済状況とか、上司の家庭の状況とか、いろんなどうしようもないことに左右されます。
だったら、他者からの見返りなんて求めずに、自分が楽しいから、いいと思うから、一生懸命やればいいだけの話ですよね。
でも、、、最後に付け加えたいのは、、、
サリンジャーは、すこし早すぎたのではないかな、とおもいます。
理解してくれる人にあえなかった、彼みたいな価値観の人が同時代に極端に少なかった、、、。だから、隔離して隠遁生活を送らざるを得なかった。
その過程で、愛する人たちを阻害してしまったことは、彼自身、作品の中で苦悩しています。
愛する人、つまり母からのスープでさえ感謝できないのであれば、より大きな神や宇宙の愛なんて語る資格は無い、そんな描写が『フラニーとゾーイ―』で出てきます。
でも、そうせざるを得なかった。
そのことはきっとずっと彼を悩まし続けたのではないかなと思います。
見返りを求めずに、自分のやりたいことだけをやる、のではなく、
正しいこと、義のあることを行い、キリストの教えを実践し、愛に基づいて行動することです。そうすれば、自分が宇宙と近くなったからといって、元々自分の近くのいた人たち、家族など、を阻害する必要もなくなりますし、そういうことはできなくなります。
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