今回は一歩引いて、俯瞰したところから書いてみたい。
長年続いてきた歩みが今、どこに向かうべきなのか、なぜ起きていたのか、今鮮明に見えてきている、というより、「わかる・感じる」というべきか。
そもそもなぜ私は、10年以上に渡って(一度別のブログを閉鎖しているのでそれを含めると10年以上になる)、ブログで己の体験と向き合い続けてきたのだろうか。その原点は、私の幼少期の「ある一夜」に遡る。
新宿の副都心から、西ヨーロッパの田園風景へ
私は北米で生まれ、大学で日本に戻るまで、さまざまな国を転々としながら育った。
小学校1年生のとき、全く日本語の通じないフランス語圏の片田舎へと引っ越すことになった。現地の小学校に編入するまでのいくばくかの期間、何もすることがない静かな時間があった。
それまで住んでいたのは、高層ビルが立ち並ぶ東京・新宿の副都心。それが突然、西ヨーロッパの田園風景の、古いユダヤ系貴族の屋敷へと移り住むことになった。 夜になると周囲は漆黒の闇に包まれ、気持ち悪いほどに無数の星が輝いていた。家の中にいるのは、家族とハウスキーパー、そして1匹の大型犬だけだった。
ある日の夜、私は慣れないベッドに横たわりながら、暗闇の中で天井を見つめて、ふと次のような考えが浮かんだ:
「私の名前は〇〇〇〇。でも、この広い土地でその名前を知っている人は誰もいない。今は夜で、みんな寝ている。私の名前を知っている家族も寝ている。私の名前を伝える言葉すら、誰にも通じない。私のことを知っていた友達や先生たちは、遠く遠く離れた日本にしかいないんだ」
その瞬間、強烈な問いが頭をよぎった。
「私って、本当にこの世界に実在しているのだろうか? これを考えている、私の頭の中だけの存在なんじゃないだろうか。だって今この瞬間、私が存在することを証明できる人なんて誰一人いないのだから……。私って一体、何なんだろう?」
身体から重力が消えた瞬間 ――「ラギマー(Laghima)」の体験
それは恐怖や不安といったネガティブな感情ではなく、きわめて鮮明な「身体感覚」として訪れた。
そう感じた瞬間、ふわっと自分の身体が軽くなるのを感じた。
仙骨のあたり(ベースチャクラ/ムーラダーラ)からエネルギーが立ち上がり、全身にかかる重力を無力化していくような「軽さのセンセーション」だった。ベッドの上に横たわったまま、まるで自分の体が物理的に浮き上がったかのような感覚だった。
これに似た感覚を、私は幼少期に2回ほど経験したことがある。 1つ目は、遊園地のジェットコースターが高い頂上まで登り詰め、一気に急降下する瞬間のあの「ふわっ」と身体が浮く感覚。 2つ目は、初めて連れて行ってもらった美容院で髪を洗ってもらっている時、うなじのあたりに美容師の手が触れた瞬間、背筋から首筋にかけて走った強い「くすぐったくも心地よい」浮遊感だ。
そのどれもが、不快感ではなく「快感」の身体感覚だった。
クンダリーニ覚醒から17年を経た今の私には、あの感覚が何であったかがはっきりと分かる。あれはヨガの伝統において現れる「八つのシッディ(超自然的な境界状態)」のひとつ、「ラギマー(Laghima:軽さの顕現)」だったのだ。
特にタントリック・シャイヴィズム(カシュミール・シャイヴァ派 、以下TS)において、ラギマーは単なる「身体が浮くような超能力」ではない。それは、「身体・エネルギー・意識の限定(縛/結び目:Granthi)」が解き放たれていくプロセスにおける必然的な兆候・段階として位置づけられている。
この物質世界において、人間を最も強く縛り付ける制限のひとつが「重力」であり「重さ」だ。その重さが突如として失われる。苦しみや制限の象徴である「重さ」から解放されるからこそ、私たちはそれを強烈な「快感・至福」として感じ取る。それは本質的に、宇宙の根源意識(シヴァ)と一体化する過程で与えられる「恩寵(Anugraha)」に他ならない。
なぜ7歳の私に「ラギマー」が起きたのか?
ヨガの教義において、ラギマー(軽さ)は主に以下のような条件が揃った時に生じるとされている。
アジュナー・チャクラ(眉間)の緊張緩和と開通 思考(マナス)による頭部の力みや緊張が抜け、眉間が深く緩んだとき。
中央気路(シュスムナー管)の開通とクンダリーニの昇華 二元的な偏り(イダー・ピンガラ)が消え、中央のシュスムナーにエネルギーが流れ込んだとき。
身体感覚(肉体への固着)の融解 筋膜や筋肉の緊張が解放され、肉体を「重い物質」ではなく「波形・周波数・空間」として捉え直したとき。
またTSでは、この現象をさらに深く次のように定義する。
個体意識から全宇宙意識へのシフト:重い肉体という誤った固定観念が溶け、本来の制限のない意識状態へと戻る。
シヴァ(観照)とシャクティ(動的な力)の調和:観察意識と身体の生命エネルギーが統合され、抵抗(摩擦)が消えることで重力が消えたような体感が生じる。
スパンダ(微振動)と世界との共鳴:身体の境界線が曖昧になり、空間そのものとシンクロ・共鳴する。
当時7歳だった私がラギマーを体験した理由。それは、異国の土地で「誰も私を知らない」という特殊な環境下において、「世界と自分を繋ぎ止める根拠が消え去る」という問いが自然発生したからだ。
私は期せずして、ヨガの聖典で説かれる「自分と世界の境界線を消し去る瞑想」を自ら実践していたのである。
カシュミール・シャイヴァ派の聖典『シヴァ・スートラ(Śiva Sūtrās)』の冒頭には、こう記されている。
चैतन्यमात्मा (Caitanyam ātmā)
「意識(純粋な気づき)こそが、真の自己(アートマン)である。」(第1章1節)
あの日、ヨーロッパの田舎の暗闇の中で、7歳の私は「純粋な意識」そのものになり、真の自己を体験した。幼かったがゆえに、チャクラの詰まりやトラウマによる重い結び目(Knot)もまだ存在せず、クンダリーニが滞りなく上昇したのだろう。
軽さの喪失、そして32歳での覚醒
その後、夜なかなか寝付けない時には、この「問い」を自分に投げかけるのが習慣になった。「体が軽くなるのが楽しく、気持ちよかったから」だ。新しい国へ引っ越すたびに、思い出してはそれをやっていた。
しかし、15歳の時にアメリカへ引っ越した晩、同じようにやってみたところ、初めて身体が軽くならなくなった。
残念であると同時に、少し驚いた。「もう私という存在は、家族だけでなく、電話や手紙で話せる友達が世界中にでき、自分を定義する社会的な『重み』が増えてしまったからなのだろうか」と、思春期の私は感じたのをよく覚えている。
当時はもちろん、クンダリーニやシャイヴィズムについての知識などなかった。
その後、長い休眠期を経て、その力が高密度に圧縮されたまま突如として覚醒し、暴走するクンダリーニ覚醒を体験することになったのは、それから17年後、私が32歳になった時のことだ。
「Gupta Yogi(隠れたヨーギー)」としての道
これまで17年に渡って、ブログを書きながら様々な文献や理論を勉強し、「私に起きている現象は何なのか」という説明を試みてきた。
そして今、全開したエネルギーと観照意識が一つに溶け合う「Āveśa(アーヴェーシャ)」の最終段階に差し掛かり、すべての意味や答えが、自発的・自動的に理解できるようになっている。
振り返ってみれば、私に起きてきたすべての体験は、何千年も前の密教(Tantra)の経典に明確に記されていたことばかりであった。
私はどこかのアシュラムに属したこともなければ、特定の師=Guruを師事したこともない。しかし、「だからこそ」意味があったのだと今は分かる。
どの組織や流派にも属さず、世俗の中で人知れず真理を体現する存在――すなわち「Gupta Yogi(隠れたヨーギー/密かなる探求者)」として自らの肉体と意識がShivaの器となり一体となり、歩むことこそが、私に与えられた役割だったのだ。
最後のトラウマや意識の結び目(Knot)が解けた今、私は改めて、私を導いてくれた宇宙の巨大な力と知恵、その恩寵の偉大さに深い敬服と感動を覚えている。
次回の記事からは、個人的体験に照らし合わせながら、タントラの経典、特にタントリック・ シャイヴィズムあるいはTrikaが伝える、現代の私たちが忘れている心と体の大事なことをシェアしていきたい。

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