アセンションが始まったのは2009年の秋口でした。
それから10年が経とうとしています。
わたしにとって、この10年は、アセンションしたことによって立ち現れる新しい現実と、仕事をしながら生きる現実社会との乖離に悩まされ、活動し、もがき続けてきた10年でした。
さて、結果としてどうなのかというと、
思い起こせば10年前のいまごろ、こんな風に人生を送りたいと思っていた人生をくれています。
見た目で判断されがちな、表に立つ仕事ではなくて、物事の表層部分をすくってわかったように伝える仕事ではなくて、ほんとうのキャリアウーマンみたいに、ちゃんと中身のある仕事をやりたい、地に足をつけて仕事をしたい、かつ、精神的に、スピリチュアルにグラウンディングできていたい、愛に溢れていたい、
そんな風に思っていたように思います。
いったん表に立ってしまうと、裏側にまわって、普通のキャリアを積むことは、とても難しいものなのですが、わたしの場合は、そのタイミングとプロセスがよかったので、いまにいたります。
おもうに、ここに来るまでは、必要不可欠ないくつかの決断と転換点があったのですが、そのきっかけがまずアセンションであり、アセンションと並行して起きてきたいろいろな人生のドラマが深く影響をあたえ、
その時辛かった出来事、たとえば離婚にしたって、その離婚がなければいまのわたしの生活はありえないのだから、やはり起こるべくして起きたのだなと、つくづく神様の力の深さを感じさせられます。
毎週土曜には、車で15分くらいの隣の区のスポーツジムのスイミングスクールに娘を通わせており、待ってる間近くのコンビニでコーヒーを飲むのが楽しみなのですが、ちょうど先週、前から気になっていた、通り道にある教会に吸い寄せられるように入って行きました。
するとすぐ中から伝道師の方がでてきて、
どうしましたか?と言われるので、
お祈りをさせていただけますか?と聞くと、ちょっとだけ驚いたように、でも笑顔でいいですよ、とおっしゃられ、ひんやりとした教会の中でお祈りをしました。
その10分もなかった間に、五月にわたしに起きたたくさんの大変なことや、
今の仕事に対して抱えていた悩みや迷いに対しての、はつきりとした指針と答えが出てきました。
それは、謝罪と、感謝と、祈りと、神と宇宙への信頼、そして、助けを求める謙虚さ。
自分が周りに背を向けてしまったことへの
謝罪、与えられているものに感謝できなくなってしまっていたことへの謝罪。
そして新たに受け取っているギフトへの感謝。
そして、世界が愛と光に満たされるようにという祈り。
あれこれ悩まずに天と宇宙に任せるという信頼。
困った時はいつも一人で頭を抱えてしまい、the world is falling apart もうわたしは終わりだ、みたいに極端になってしまうのがインディゴソウルの困った特徴です。
本当はそんなことなく、求めさえすれば助けは与えられます。
自分でやらなくちゃという責任感とプライドがあいまって、助けを求められなくなってしまうと、どんどん孤独の中で悪い結論に向かってしまいます。
周りを見て、助けを求めてみましょう。
さて、ブログのタイトル。
今日もその同じ教会にゆき、お祈りをしました。
前と同じ伝道師様がでてきてくださり、中に招き入れてくださいました。
今日、お祈りをして、ハッと気づいたら十分もたっていました。
本当に心からお祈りできたなという感じ、トリップしていた感じです。
そうさせてくれるのが、聖なる空間の良さかと思います、そこで頭にうかんできたのが、「アセンションの症状」とそれへの固執・こだわりを手放すことがアセンションが進行してきた段階で重要なのだ、そして今の自分はまさにそれができるようになったことへの気づきです。
このブログには、アセンションが始まって起こる「変化」について知りたくていらっしゃる方がほとんどです。
わたしも、その変化に対してずっとこたわってきました。
そして、その変化があまりにも目新しく、またアンビリーバボーなものだから、固執してしまったりしてきました。
でも、これはずっと知ってはいたものの、実践することが難しかったものなのですが、大事なのは現実にもどり、新しくなった愛と光に満ちた自分で世界とむきあい、生き、その光と愛を羅針盤にすることによって世界に良い変化をもたらすことなのです。
この世界から離れてしまいたい、アセンションするとそう思うことはたくさんあります。
しかし、彼岸ではなく此岸、今ここにこそあなたが生きる意味があるのです。
いまはまだ、アセンションの過程によってはそう思いにくい方もいるでしょう。
でも、覚えておいていただきたいのは、どんなに辛く大変でも、この世界は愛すべき世界であり、日常は愛すべき瞬間の連続であるということ。
むしろアセンション の変化は、今まで自然だった日常に違和感を抱かせ、自分と周りの現実に向き合わせる修行の日々をもたらすために起こるのではないかなと思います。
その変化自体に意味があるのではなく、気づきと学びのために変化が発生する。
めまいや、超能力的な感覚なども、その中にあってしてそれでもなお日常をいきる精神力を学ばさせるためにもたらされる、そんな感じがします。
そうして娘を迎えにもどったら、スポーツクラブで昔の職場の同僚に会いました。
表に出ていた頃の人です。
当時の印象とだいぶ違っていました。
偶然の出会いはどんどんともたらされること、
追いかけるのではなくて引き寄せること、オープンでいればいいこと、ダウンな気持ちになったら、誰かに助けを求めること、感謝をすること、そういったことを教えられている気がしました。
稽古待ちの間うろうろしていた駅ビルでこんな可愛いペンを見つけたので娘のお土産に買いました。
今小さい子の間でユニコーンが大流行しているのを知っていますか?
奥田民生ではありません。
ユニコーンは光の動物であり、夢の体現者であり、愛の象徴であり、創造性のシンボルである
とにかく素晴らしいクリーチャーです。
そのユニコーンがクリスタル世代で大流行しているのとをわたしはとてもとても嬉しく思っています。
きっと、たくさんの子供達がユニコーンに語りかけて、この世界を日々よくしてくれているのだろうと思います。
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