自分が他人と自分を比較しなくなったなぁと感じることについて書きます。
たとえばスピリチュアルな世界でも、誰々はいい、何々〜は悪いとか、何々は邪道だ、とかそういった書き方を目にしたりします、主にネットだけど。
スピリチュアルな進化っていうのは、基本的にタイ自分だから、善悪も正誤もなく、ただ自分と向き合うだけ。
批評も意味ない。
批評すると意地悪な気持ちがうまれるから、それ自体が体に良くない笑。
ヤフーニュースを見ていて、女のあり方とか、女の生きづらさとか、嫉妬とか、自民党に取り込まれてちやほやされる不思議な右翼系の女性政治家の記事とか、芸能人の自慢はどうとか、そういう記事が並んでるのを見て、あー、昔は多少なりともこういう記事が気になったりしたかなぁ、となんとなく思います。
それだけで、なんとも思わないし、読んでも読まなくても、自分の中にはふーん、という気持ちが出るだけで、嫉妬も、溜飲を下げるような感覚も、はたまた自分を卑下するような感覚も、生まれません。
おそらく、そういった感覚がうまれて、そういう本能的な感情にうったえかけるからこそ、そういう記事が読まれて広告収入がはいり、メデイアもどんどんそういう記事を量産するんでしょう。
人間の動物的な負の感情を肥大化させるためにあるといってよい、タブロイド的「ニュース」。
そこから自由になっているかどうか、つまりなんとも追わないかどうか、興味がなくなってるどうか、は、結構アセンションのよいリトマス試験紙だと思います。
そういった情報をどんどん切りすて、切り離して行くと、変わって行きます。まずはニュースを見ない、と物理的にシャットアウトするのも一つののやり方。
そうすると、なんだ必要ないじゃん、てことがわかってくる。
ソーシャルもそう。
ソーシャルは基本的に私ってこんなに幸せでいけてる、ってことをマウンティングするためにありますよね、でもそんな他者の承認なんてなくても、自分で自分を認めてあげることが何より大切と分かれば、ソーシャルなんていらないんです。
だから脱ソーシャルしてみると、結構変わったりします。
脱ソーシャルして、すごくストレスが軽くなった時に、常に他者と自分を比較させようとすることから受けていネガティブな影響がどれだけ大きかったかを、世界が間違った方向に導かれているかを、実感できます。
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