今日は、久しぶりに有給を取った。朝、リハビリから帰る途中、ふと立ち寄ったCity Bakery。店内に流れている音楽に聞き覚えがあった。
深い声の男性シンガーが歌っている。店員に尋ねると、その曲は会社が作ったプレイリストの一部だが、今かかっている曲はリストに載っていないと言う。誰だったかと考えた瞬間、ふと頭に浮かぶのは、映画監督とコラボしていたアーティスト。そのサウンドトラックが好きだったことを思い出す。
映画の情景が、心の中でぼんやりと浮かび上がる。Sadな感じの、少しグレイがかった風景が広がる。しかし、遠い昔すぎて、アーティスト名がどうしても思い出せない。ただ、思い当たる監督は二人。ウォン・カーウァイか、ヴィム・ヴェンダース。そのうちの一人だろうと感じながら、ヴェンダースの作品を調べると、目に飛び込んできたタイトル。それが『Land of Plenty』だった。
そのタイトルを見た瞬間、映画の風景がまざまざと蘇ってきた。ラナとポール。この二人の姿が、今のアメリカ社会の分断と重なる。ラナは、多文化の中で育ち、リベラルな価値観を持ち、社会的弱者を助けたいと願う若い女性。一方、ポールは、戦争と9.11のトラウマを抱え、昼夜を問わずLAの街をパトロールしながら、アメリカを敵から守ろうとする一人の男。二人は全く異なる視点を持ちながら、同じアメリカという土地で生きている。
『Land of Plenty』が発表されたのは2005年。9.11のテロからわずか4年後だ。その時点で、アメリカはすでに今の分断の入り口に立っていた。ブッシュ政権下で、アメリカは保守化し、リーマン危機を迎える。オバマがその後、黒人初の大統領として登場し、アメリカ経済を中産階級の手に取り戻し再生しようとするも、結局はヴェンチャーキャピタルのテコ入れとシリコンバレーの力によって製造業の先にあるデジタルにアメリカの国力を見出そうし、貧富の差の拡大が続いた。
『Land of Plenty』というタイトルが示すのは、豊かさである。しかし、それは単なる豊かさではない。物が溢れ、消費が過剰になり、飽和した資本主義社会。それは「過剰」という言葉にすべてを集約できる。人々はもっともっとを求め、富と物と名声を渇望する。しかし、それは満たされることのない欲望の連鎖に過ぎない。後期資本主義の病んだ社会が、まさにそこに描かれている。
City Bakeryは、トランプが名を成した街ニューヨークで生まれたカフェブランド。そこに流れていたのは、レナード・コーエンの声だった。彼の歌詞が、今の私たちに響く。
「For the innermost decision / That we cannot obey / For what’s left of our religion / I lift my voice and pray / May the lights in the Land of Plenty / Shine on the truth some day」
私流に訳してみると、こうなる。
「心の奥底から湧き上がる決定 / 従わずにはいられない / 宗教の中で残されたもの / 声をあげて祈るしかない / この豊穣の地に / いつの日か真実に光が当たることを」
アメリカは、約束された土地であり、「豊かな土地」でありながら、その豊かさがもたらす過剰と破綻によって、分断を深めている。Make america great again のGreatは、いったい何を持っての「素晴らしさ」なのだろうか。その「真実」は、いつ明らかにされるのだろう。
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