日曜の夕方頃から、振動がまた激しくなり、時計を見るたびに33.44,11がひたすら続きます。
頑張りました、波動をあげましょう!一個ステージクリアしました、と上から絶賛されてる感じがいたします。
その理由は、なんだかよくわかるなぁ。
引き寄せをこの二ヶ月以上やってきています。
その結果、週末に、2月以降半年ほど絶交していた母と再会することになり、父の住んでいる家を訪ねて、自然の中であゆ掴みや、バーベキュー、スイカ割り、花火などを娘と楽しむことができました。
母に対して、怒っていたことも、さんざん言いたいことを言って、あとは野となれ山となれと思っていましたが、もうとにかくネガティブなことは聞かない、というマインドセット(頭の建てつけ、もでもいいますか)で行きましたので、そうすると向こうからもネガティブなものは降ってこないんですね。
結局自分の中の悪い波動を、相手が吸収、反映してしまい、自分に帰ってくるということなんだと思います。
母とこじれていた問題も、もうそこにはノータッチで行きました。我慢せずにい痛いことを言わないとカタルシスにならないこともあり、特に小さいころからの積み重ねが効いてくる親子関係において、親の呪縛を、振り払う形で言いたいことを言えた後は、ほとぼりが冷めるまで待ち、その後はもういろんなことを気にせずにふわふわ〜とすればいいのかな。
さて、
先週金曜くらいから、仕事ではかなり、リスキーな状況に陥っていました。
でも夏休みだし。娘が祖父母と過ごすとても大事な家族の時間だし。ストレスを抱えたままなんてあり得ない。
そしてできることもはやなにもない。
普通の時間に、できる範囲でわたしにでやれることはすべてやり、あとは時を運に任せるしかありません。
そして、それこそが一番の対策なのです。
なぜならこういう時、サラリーマンはより悪い事態ばかり想像してしまいます。
でも、悪いシナリオを想像すればするほど悪いシナリオを引き寄せてしまうんです。
それに悪いことを考えたって無意味。
未来は、そして自分のコントロールのできない他の組織が判断することは、いくら心配したって自分のコントロールの範囲を超えています、他の人の判断を自分が代わりにやることはできません。
だから心配することは時間とエネルギーの無駄なのです。
無駄なだけどころか、相手がマイナスの決断を下すことを想像するのにエネルギーを費やせば、そこにエネルギーが集中して、実際に自分が起きて欲しくないシナリオの現実化の可能性を高めてしまいます。
だから、不安な状態に陥った時に、不安に思うのは、逆効果なのです、逆説的に聞こえますが、でもそうなのです。
ある種のリスク状態に陥った時に、ありがちなのは犯人探しを始めることです。
でも、誰かを吊るしあげたところで、得るものは何もありません。
それに、大概のことはチームワークなのだから、誰か一人が悪いことはありません。
すべては相互にからまりあって、ひとつのリスク的状況が作り出されるのです。
その芽は、いろいろなところにあったはずで、それはみんながある程度わかっていたり、見て見ぬ振りをしていたところから綻びが出るのです。
リスクは、そういった状況を明るみに引き出すことから、あるいみ機会、チャンスとも言われるのです。
さて、今回わたしはだれのことも責めませんでした。
自分のことはすこし反省しました。
でも、大事なのは、どこに改善できる点があったのかを見つけることであり、無駄な反省はしませんでした。
わたし自身で改善できる点があって、それによってリスクが避けられたのだとしたら、それはどこだったのか、と、文字通り「省みる」という意味からの反省でした。
それ以外の反省なんて意味がないとおもいます。
体育会的な、根性論の反省なんて、人の心に傷を残すだけの虐待だとおもいます。
明らかなミスがあったもしても、それはしょうがなくて起きてしまった理由があったはずで、実際に起きてしまったことをいつまでいっても無意味だから、いったん問題点が確認できたら前に進むべだとおもいます。
そういう時は嫌な気持ちがチームに蔓延しがちですが、その空気感こそ、あらたにネガティブなことを引き寄せてしまうので、大事なのは雨雲を振り払うように、ネガティブな空気を払うことです。
適当に忘れていく鈍感さも大切です。
かつてのわたしにはできなかったことでした。
いろんなことをトラウマに感じて、食べられなくなって激ヤセしたり、不眠症になったり。。。
何もいいことはありません。
だから、今回のケースは、わたし自身が成長していたことを実感できる体験でした。
それを、宇宙が評価してくれたのかな、とおもいます。
街中をあるいていても、光や灯りがほわっとしていて、世界はなんとなくぼんやりとした優しい輪郭です。
わたしはぼんやりと、この世界と優しくふれあい、馴染んでいます。
すべてのものごとをやさしく、ぼんやりととらえ、ひとつのことにとらわれないようにすると、いろんなことが俯瞰してよく見えます。
その存在のあり方が、アセンションが始まってから、なかなか慣れなかった。
自分自身が溶けていくような、知っていた世界が壊れていくような恐怖感がありました。
いまは、もうだいぶ、新しい世界の感じ方に慣れてしまって、もともとどうだったのかもよく思い出せないくらいですが、はっきり言えるのは、すべてが優しくぼんやりと、とけあって調和していることです。
以前はすべてが刺激のように感じられ、この世界事態がわたしにとってストレスの元凶でした。
いまは、世界と自分はなんとなく分離できないような感じで、ゆったりと流れています。
自分は世界の一部であり、世界は自分である。
それが真実です。
なにか困ったことがあったら、困ったな、という気持ち自体を手放してみてください。
そんなことできないよ!って感じがするかもしれませんが、騙されたと思って、ふわっとした気持ちになってください。
眉間のシワをのばし、心臓のドキドキをおさめ、肩に入っている力を抜いてみてください。
きっとうまくいきますから。
ポイントは今です、今に集中する、今楽しいこと、今の自分。今楽しめること。
無心に川の蟹を探している子供達の姿には、今しかありません、今のワクワクだけに、突き動かされています。
それが、人間のあるべき姿です。
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