ここ数回にわたって私が書き記してきた「タントリック・シャイヴィズム」の教えについて、一度その全体像と本質を分かりやすく整理しておきたい。
一般的には「カシュミール・シャイヴィズム(カシミール・シヴァ派)」と呼ばれることも多いが、この地域的な名称に対しては「特定の地域に限定しすぎている」という批判の声もある。
そのため、思想の本質を表す「Non-dual school of Shaivism(シヴァ派の非二元哲学)」や「タントリック・シャイヴィズム」、あるいは総称である「トリカ(Trika)」と呼ぶ方が、その広大なスケール感を正しく表しているかもしれない。
現代の哲学者、物理学者、スピリチュアルティーチャーたちの多くがなぜこの古代哲学に惹きつけられるのか。その構造を「シヴァ」「非二元(Non-duality)」「タントラ」という3つの軸から紐解いていく。
1. 根本となる「シヴァ」とは何か
この体系の出発点は、すべて「シヴァ(Śiva)」にある。
ここで言うシヴァとは、特定の宗教的意匠をまとった神像のことではない。
至高の純粋意識(Absolute Consciousness)そのものを指す。
この至高意識は、存在と存在すること(Being of being)、意識と自覚(Conscious consciousness)が一切分かたれず、何ものにも制限されない完全な自由(Will / Willingness)を保持している。
この無限の自由なエネルギーの動き(Spanda / 振動)から物質が生まれ、肉体が生まれ、人間としての体験が紡ぎ出されている。
2. なぜ「Non-dual(非二元)」なのか
従来の多くの宗教や哲学が「神と人間」「天国と地上」「聖と俗」を明確に分ける二元論的な世界観をとったのに対し、トリカは徹底した非二元(Non-duality / 不二一元論)を提示する。
世界も、他者も、この肉体も、すべては「ひとつの意識(シヴァ)が自らを形を変えて表現している姿」に過ぎない。つまり、「神と私は別々であり、修行して神に近づく」のではなく、「最初からすべてがシヴァそのものである」という視点に立つ。これが、Non-dual school of Shaivism と呼ばれる所以である。
この根本哲学は、8〜9世紀頃に明かされた聖典『アーガマ(Āgama)』や、岩に刻まれた神託として発見された『シヴァ・スートラ(Śiva Sūtrāḥ)』に端を発する。そして9世紀から11世紀にかけて、アビナヴァグプタ(Abhinavagupta)やウトパラデーヴァ(Utpaladeva)といった類稀なる思想家たちによって、洗練された哲学体系へと結実した。
3. 「タントラ」の真実と、試される第一歩
では、そこに結びつく「タントラ(Tantra)」とは何か。
欧米や現代社会では、タントラというと「怪しい性的な秘術」や「超人間になるための過激なクンダリーニ覚醒」といった偏った見方や誤解と結びつけられがちである。しかし、本来のタントラとは「宇宙の物理的エネルギーと人間という器を活用し、ダイレクトに真理へ至るための実践的システム」を意味する。
トリカ(タントリック・シャイヴィズム)の最大の特徴は、一般的なヨガや密教のように厳格な食事制限や禁欲、出家などの現実社会の否定といった厳しい戒律を課さない点にある。食べる喜びも、感覚の心地よさも、生の営みも一切排除しない。
ただし、そこにはたった一つにして最大の条件、ハードルが存在する。
それは「すべての体験は、シヴァ(至高の意識)がこの肉体を通して世界を物理的に味わっているのだ」という観照の目を保つことである。
肉体や感覚を単なるエゴ(私)の欲で貪るのではなく、エゴのコントロールを手放し(Let go)、宇宙の純粋意識に身体ごとその操縦権を開け渡すこと。究極的には自分は器なのだと「身体と意識両面から理解する」、この「第一歩の意識の反転」をクリアできないと、教えを単なる欲の正当化へと誤解し、間違った方向へと迷い込んでしまう。
これこそが、古来この教えが安易に明かされず、師から弟子へと秘伝(Esoteric)として語り継がれてきた真の理由である。密教、密やかに、限られた訓練を受けるものたちの間で受け継がれる叡智、とされる所以である(密教の一つ、空海の真言宗もタントラから大きな影響を受けているが、それはまた別の機会に)。
そしてだからこそ、タントリック・シャイヴィズムの知恵は、一般的に知られていない。しかも、「普通に」日本社会で生きている人であれば、なおさら聞いたことがないだろう。
次回は、タントリック・シャイヴィズムが、いかに現代科学を先取りする叡智だったのかについて、ご紹介する。

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